第30話 大観衆の中で 2

観客席に降りてきたさおちゃんはジッとわたしのことを見つめながら、しっかりとした声を出した。

「ねえ、杏子ちゃん。わたし杏子ちゃんのことが好き。付き合って欲しい!」

わたしは状況を理解できずに、硬直してしまっていた。


さおちゃんはヘッドセットマイクをつけたままにしているから、告白の声は1500人に響き渡ってしまっていた。会場中の視線がわたしのほうに集まってしまっているし、近くの席の人たちからの視線はとくに強烈なものになっている。


当たり前だ。推しのアイドルが突然ファンの女の子に告白をし始めるなんて、ライブを見にきている人たちからしたら、許せないようなことだと思う。


「さ、さおちゃん、今はちょっと……」

わたしはヘッドセットマイクに音を拾われないように小さな声で答えた。さおちゃんは大きな瞳でジッとわたしを見つめ続けている。


「今答えが欲しいの。杏子ちゃん、もうこれ以上逃げないで!」

たくさんの人の前で、さおちゃんがわたしに抱きついてきた。さおちゃんの柔らかい体がわたしの体を包む。

「さおちゃん、ダメだって!」


今度はヘッドセットマイクに声が入ってしまっていた。それに続いて、さおちゃんの荒れた呼吸音をマイクが拾っていた。

「ねえ、杏子ちゃん、答えが欲しいよ」

耳元で囁かれた艶やかな声が、会場全体に聞こえている。


「これが最後だよ。今日フラれたらもうこれ以上、杏子ちゃんに迫らないから」

緊張でさらに息を荒げるさおちゃんの息遣いが、わたしの耳元と、会場の大きなスピーカーの両方から聞こえてくる。さっきまでの賑やかな声援も困惑のざわつきも嘘みたいに会場が静まり返っていた。さおちゃんの呼吸音が会場を支配している。


「杏子ちゃん、わたしを愛して……」

さおちゃんはもう引き下がることはできないのだろう。覚悟を決めた告白をしている。全てを失う覚悟で愛を伝えてきてくれているさおちゃんの気持ちから逃げることはさおちゃんへの最大の裏切りになってしまう気がする。


ファンとしてでもなく、友達としてでもない好きの気持ち。わたしが逃げ続けてきた好きの気持ち……。さおちゃんが、覚悟を決めてくれたのに、向き合わないなんて、わたしにはできなかった。だって、わたしもさおちゃんのこと愛してるんだもん!


「わたしの気持ち……」

ヘッドセットマイクに拾われないような小さな声で呟いた。その声が、さおちゃんに聞こえているかもわからなかった。わたしは抱きしめてきているさおちゃんの体を引き離してから、ゆっくりと顔を近づけた。


「杏子ちゃん……?」

不思議そうに見つめてきていたさおちゃんの唇に、思い切って唇を重ねて、抱きしめた。


会場全体に静かにリップ音が響く。本当は聞こえないような小さな音のはずなのに、たくさんの人に聞かれてしまっていたけれど、今は恥ずかしいとか、そんな感情を持つ余裕もない。


再び大きなざわめきが耳に入ってきたけれど、次の瞬間にはさおちゃんの心臓の音の方がしっかりとわたしの体に響いてきていた。さおちゃんのほうも、わたしに対して吸い付くようなキスを返してきてくれた。


たくさんの人の気配も消えて、わたしとさおちゃん、2人だけの世界に浸っていた。さおちゃんはほっそりしているのに、柔らかかった。アクリルスタンドではない、ちゃんとした生身のさおちゃん。何度も触れたことがあるはずなのに、今はかつてないほどにさおちゃんを感じている。ひとしきり愛を確認してから、体を引き離し、わたしはしっかりと答えた。


「さおちゃんのこと、わたしも愛してるよ!」

会場中が様々な感情で包まれている。怒っている人、喜んでくれている人、珍しいものを見たと楽しんでいる人。わけのわからないくらい色々な感情に包み込まれて、どうしたらいいのかわからなくなった。


我に帰って、この場から逃げたくなってしまう。とんでもないことをしてしまったのではないだろうか。さおちゃんもホッとしたからか、ようやく現実感が出てきたみたいで、頭を抱えてしまっている。

「わたし、やっちゃったかも……」


わたしたちは会場内で2人だけ取り残されたみたいな気分になる。そんなときに、タイミング良くミミミちゃんの怒った声が聞こえた。

「庄崎咲桜凛さん、あなた何やってるの?」

普段ライブ会場で笑顔を崩さないミミミちゃんの、明らかに苛立った声を聞いて会場中がまた別のざわつき方を見せていた。


デビュー当時から、ずっと笑顔を届け続けていたミミミちゃんの怒った声は、それだけでアイドルサオリンが突然客に告白を始めたという衝撃的なシーンを打ち消しかけているらしい。さおちゃんはどうやら普段ステージ上で絶対に笑顔を崩すことのなかったミミミちゃんを怒らせるくらいとんでもないことをしてしまったらしい。


「出ていきなさい! ここは神聖なライブ会場よ! そこを私物化するなんて言語道断! あなたとのツーマンライブは中止! ここからはわたしのワンマンライブにするから!」

ミミミちゃんが力強い声でわたしたちを追い出そうとした。


さおちゃんは小さな声で「ごめんなさい……」と呟いてから、わたしの手を引いた。わたしもさおちゃんも俯きがちに一番近い一般客用の出口から出て行こうとする。その様子をみんなが見ようとしたところに、またミミミちゃんが声を出した。


「そんな子たちのことはもう見ないで! わたしを見て!!」

ミミミちゃんの叫び声で観客の視線をステージに戻すと、すぐにまたミミミちゃんは笑顔に戻っていた。

「今日はわたし一人で2人分以上楽しませちゃうから! 来てくれた人たちに絶対に後悔させないライブにするからね!」ミミミちゃんの元気な声に会場中が湧き上がった。


ドアから出ながら、背中越しにミミミちゃんのライブの歓声を聞いた。声だけで、あの困惑に満ちた会場をミミミちゃんの色に初めあげてしまっているのがわかる。やっぱりわたしの推しは凄い人だったみたいだ。


後日、ミミミちゃんの所属事務所から、主にさおちゃんのファンに向けて、ライブに来ていたお客さんのうちで満足してもらえなかった人には返金の対応をすると連絡があったみたいだけれど、返金対応を希望した人はいなかったらしい。あの会場に来ていたさおちゃんのファンを根こそぎミミミちゃんのファンにしてしまったようだ。

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