第16話 推しをやめた日 2
「わっ」とわたしが声を出したのは気にせず、さおちゃんは、後ろからわたしの腰の辺りに手を回していた。
「杏子ちゃん、今日も来てくれてありがと!」
嬉しそうに言ってくれるさおちゃんに、わたしはなんて返せば良いのかわからなかった。来たことは来たけれど、わたしはもうさおちゃんを推すことやめてしまったのだから。今日は会わす顔がないからさおちゃんに会うべきではなかったのに、足が動いてくれなかったせいで、さおちゃんに見つかってしまったではないか。
離れていくさおちゃんに会いたくない、なんて心の中で言い訳をしながら、その一方でさおちゃんが自分のことを見つけれくれるのを期待していたのかもしれない。だとしたら、あまりにもわがまますぎるし、そんな自分が嫌になる。
「なんでここに来ちゃったの……?」
わたしを見つけてくれたさおちゃんに対する嬉しい気持ちと、推しをやめてしまった罪悪感が湧くから来てほしくなかった気持ちが混在する。
「『来ちゃったの?』ってまるで会いたくなかったみたいなこと言わないでよ。杏子ちゃん会場にきてくれてたのに、途中でどっか行っちゃったから、気になっちゃって会いたくなっちゃったんだよ」
「よくわかったね……」
わたしからほどんど見えない距離だったのだから、ファンの人たちと握手をしているさおちゃんからすれば、もっと見えにくい距離だったはずなのに。さおちゃんは広いライブ会場でいつもライブをして慣れているから、細かいところまで目が届くのだろうか。
「そんなことよりも、杏子ちゃん大丈夫?」
「え?」
「突然泣き出して、列から離れて行って戻って来なかったから、調子悪かったのかなって思ったの。顔色も悪かったし、なんだかずっと暗い顔してたから、心配になっちゃった」
さおちゃんが自分の胸元をギュッと押さえて心配そうな表情でわたしを見つめていた。
「表情まで見えてるの?」
「当たり前でしょ?」
さも当然と言うように、わたしのことを把握しているさおちゃんはすごい。どこからでも目が届く範囲ならすべての行動を見ているのだろうか。
「さすが、アイドルだね。みんなのこと見てるんだ」
「みんなのことも見てるけど、わたしは杏子ちゃんのことは絶対に見逃さないよ!」
口元を緩めたさおちゃんの本心からの笑顔をもらう。やっぱりさおちゃんの笑顔は眩しい。さおちゃんがわたしのことをちゃんと見てくれていて本当は嬉しいのに、わたしは素直になれそうになかった。
「そっか。でも、アイドルが特定のファンのこと特別扱いするのはよくないよ」
「何言ってるの。杏子ちゃんは、ファンかどうかっていう以前に大切な人なんだから、特別扱いするに決まってるよ!」
「そっか……。ありがとう……」
嬉しい言葉なのは間違いない。さおちゃんは、売れっ子のアイドルになっても、未だにわたしのことを大事な友達として考えてくれているのだから。けれど、そんなさおちゃんから離れるのに罪悪感が湧き続けるようなことを言うのはやめてほしい……。
「だから、わたしのこと、これからもいっぱい応援して、いっぱい推してね」
もう推さないんだよ、とは言葉には出せなかった。さおちゃんはそんなわたしの心の中なんて知らないから、いつものように優しく微笑みながら、わたしの手をそっと握ってくれた。
「今日並べなかった分の握手だよ」
「……ありがと」
再び後ろに回り込んでハグをしながら、包み込むようにわたしの手を優しく持ってくれているこの行為が握手と言えるのかはわからなかった。
温かいさおちゃんの体がわたしのことを包み込んでくれている。優しいさおちゃんと冷たいわたし。感情がグチャグチャになってしまう。さおちゃんのこと、やっぱり大好きなのに、これ以上一緒にいると辛くなってしまう。
さおちゃんは、きっとアイドルを目指し始めた時よりもずっと大人になっていると思う。変な距離感を意識してしまっているわたしの惨めさが、より一層目立つ気がした。
うまく笑えないわたしのことも優しく包み込んでくれるさおちゃんを背中越しに感じながら、わたしはきっと、さおちゃんのライブに行くことはないのだろう、と心に決めていた。わたしにとって、さおちゃんは高嶺の花が過ぎた。
「じゃ、そろそろ帰ろうよ」
さおちゃんがわたしの体から離れて、優しく声をかけてくれる。
「ごめん、今日ちょっと寄るところがあるから、わたし一人で帰るね……」
咄嗟に嘘をつく。
「わたしも一緒についていくよ?」
「いいよ。さおちゃん疲れてるだろうし、家に帰ってゆっくり休んだほうが良いと思うよ」
「ううん、わたしは杏子ちゃんと一緒にいるのが一番楽しいから一緒に帰りた——」
「だから、いいってば!」
つい強い口調になってしまって、自分でもびっくりしてしまった。
当然、そんな言葉をかけられたさおちゃんはもっとびっくりしてしまっていた。
「そっか……。じゃあ、ここで解散しよっか……」
さおちゃんは口元に笑みを浮かべていたけれど、目は潤みかけていた。
「じゃあ、杏子ちゃん、またね……」
うん、と元気なく返して、わたしたちはそれぞれ別方向から家に帰ったのだった……。
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