第15話 推しをやめた日 1
わたしたちは、次第に離れていく。
さおちゃんが駆け出しの頃から継続して参加していた握手会に今日も参加した。けれど、当時とはまったく規模が違っていた。地元の小さなライブハウスで行われていた握手会は、いつしか都会の大きなホールでの開催に変わっていた。さおちゃんは、眩しいくらいに可愛らしくて、手が届かないくらい遠くにいる。その現実を見て、目眩がする。
いまや、握手会のときのさおちゃん目当てのファンは数百人単位の行列を作るようになっていた。昔売れる前のさおちゃんがたった数人の列しか作っていなかったのを思い出す。さおちゃんの最古参ファンを自称していたしょー吉さんとやらはまだいるのだろうか。それすらわからないくらい、人が多かった。
みんなの視線を一心に集めているのは、あの時とはまったく違う、遠く離れたさおちゃん。時間が経つにつれて、握手を終えたファンが帰って行くから、少しずつ列は短くなっていく。それでも、全然距離は届かない。わたしとさおちゃんの距離は一向に縮まらない。
さおちゃんに人気が出ていくのは凄く良いことのはずなのに、なぜかわたしの心にはモヤモヤとした変な感情が渦巻いていた。この感情が一体何なのかはよくわからなかった。認めたくないある感情がフッと浮かんで、シャボン玉みたいにパッと弾けた。
わがままなことはわかっているけれど、今になって思うのは、ずっとわたし一人の推しであってほしかったということ。わたしだけのさおちゃんでいて欲しかった。ずっと2人で一緒にいたい。
でも、現実はみんなのさおちゃん。もうきっと、さおちゃんの中でわたしへの感情はとっくに薄まっているのだろう。
少しずつ、少しずつ、捌けていく客を見ながら考える。さおちゃんは、もうわたしが推さなくても立派なアイドルなのだ。
握手会の列は短くなっていき、さおちゃんに会えるまでの時間は短くなっていく。それなのに、近づいていくにつれて、わたしの瞳が潤んできてしまっていた。
潤んだ瞳が決壊するのは一瞬だった。突然泣き出したわたしを周囲の人たちが、怪訝そうにチラチラと見ていた。声をかけた方が良いのだろうかという感情と、関わり合いになりたくないという感情が混ざり合っているのがよくわかる。
周りのさおちゃん……、いや、サオリンファンの人たちにとってこれからせっかく大好きな推しに会うというのに、推しとの大事な日を突然泣き出した知らない女の思い出で薄めてしまうのは申し訳なかった。わたしは居た堪れなくなり、嗚咽しながら、列から外れたのだった。
「頑張ってね、さおちゃん……」
誰にも聞こえないように、小さく呟いてから、さおちゃんの列からどんどん離れていく。これ以上、離れていくさおちゃんを全身で実感させられるのが苦しくて仕方がなかった。
だから、わたしはさおちゃんの推しをやめた。
ソッと列を外れてから、そのままフラフラと歩いていく。小さくため息をついてから、壁にもたれかかった。家には帰らず、会場に残ったのはなぜなのだろうか。自分でもわからなかった。
もしかして、イベントには参加しなかったくせに、帰りはさおちゃんと2人で一緒に帰ろうとか、虫の良いことを考えているのだろうか。ファンをやめたら、またさおちゃんがわたしだけの近くに居てくれるとでも思ってしまっているのだろうか。だとしたら、そんな自分勝手な感情を抱く自分のことが嫌いになりそうだった。さおちゃんはこれまでいっぱい頑張ってきてついにここまで来たのに、わたしはなんて自分勝手なのだろうか。
会場の端っこの壁から見ると、さおちゃんのことを求める列はよく見えた。みんなさおちゃんに会えるのを楽しみにしているのがよくわかる。さおちゃんはみんなから愛されている。
わたしは人気者のさおちゃんの様子を遠くから眺め続けていた。さおちゃん本人のことはほとんど見えない距離。だけど、行列の長さから、さおちゃんの人気は伺える距離。
時間が経っても全然人は減らなかった。結局、そのまま1時間ほど佇んでしまっていた。さおちゃんのファンの人たちの行列と、遠くにいるほとんど見えないさおちゃんのことを眺めていた。不審人物扱いされてもおかしくないかもしれないけれど、幸い何も言われることはなかった。
とはいえ、いつまでもここにいるわけにはいかない。さおちゃんの握手会イベントは終わり、さおちゃん本人もどこかに行ってしまっていた。一気に人の減ってしまった会場で、わたしはぼんやりと宙を見つめていた。
もうさおちゃんは帰ったのだろうか。それとも、これからシュクレ・カヌレのメンバーと打ち上げにでもいくのだろうか。小さくため息をついてから、ここから離れようとしたときに、ギュッと息を荒げて後ろから抱きつかれた。その小さな体が誰なのか、振り向くこともなく当然のように理解した。
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