第32話 業火を前に涙は枯れ果てる

「ラザール……貴様、毒を盛ったのか?」

「昔から言うだろう。死人に口なしと。正当な捜査など必要ない。貴様亡き後ならば、我らジャックミノー派の描いた絵図こそが真実となる」

 

 取り調べの最中、内務卿補佐官であるラザール・ルメルシエから出されたお茶に口をつけたレイモンが、吐血して椅子から転倒した。ラザールは苦しみレイモンを見下しながら、優雅に自分の分の紅茶を啜っている。


「我らの描く未来に貴様は必要ない。潔く退場願うよ」

「……卑劣な……真似を……」

「そういう貴様は高潔が過ぎる。私から出された茶に口をつけるとはな。まあ、どの道、無理やり飲ませたが」

「貴様……それ…でも……貴族……か――」


 暗殺など恥ずべく行為だ。ルメルシエ家は腐っても名門貴族。権威拡大のために計略を巡らせることはあっても、直接命を奪うような暴挙に出るとは考えていなかった。高潔な精神故に、敵対する相手に対してさえも貴族の誇りを信じていたのだ。それは最悪な形で裏切られた。レイモンが信じる貴族の誇りなど、どこにも存在していなかった。


「貴族でなくなるのは貴様の方だよ。レイモン・ブラントーム。地位ははく奪されるだろうが、娘には良い暮らしをさせてやる。彼女はエンゾのお気に入りだからな」


 レイモンを一瞥すると、ラザールは微笑を浮かべてた。


「何だ。もう聞こえていないのか」

 

 ※※※


 国家反逆罪の疑いで取り調べを受けていたレイモン・ブラントームがで亡くなったという一報は、直ぐに王国中に広まった。。死因は服毒であり、自責の念に駆られたレイモンが、その罪を自らの命であがなった自害であると王国側は結論づけた。


 だが、厳しい身体検査が行われる留置施設の中に、レイモンが事前に毒物を持ち込むことは不可能であり、何よりもレイモンを知る者たちからすれば、高潔なレイモン・ブラントームという男はどのような状況に置かれたとしても、絶対に自死などという方法は選ばない。自らの置かれた過酷な状況に苦しみながらも、真実を明らかにするために、最後の最後まで戦い続けるに違いない。


 レイモンの死は間違いなく暗殺であった。死人に口なし。絶対に自白などしないレイモンの口を永遠に塞ぐことで弁明の機会を奪い、疑惑をより、謀った側にとって都合の良い形に修正しようと目論んだのだ。結論ありきの捜査。邪魔な存在であったレイモンの命をただ奪うだけではなく、嫌疑をかけることによって、生前に築き上げて来た影響力をも失墜させる。命と名声、マチアス派は残酷にも、汚名を着せることでレイモンを二度殺したのである。


 レイモンの死を受け捜査は終了したが、ブラントーム家が疑惑が払拭されることはなく、貴族のくらいの剥奪が決定した。あまりにも酷い仕打ちに、企みとは無関係の貴族たちから非難の声が上がったが、国王から絶大な信頼を得るマチアス派の決定が覆ることはなかった。


 最愛の父の死と貴族の位の剥奪。あまりにも衝撃的な結末に、残された二人の子供たちは大きなショックを受けた。中でも父を救いたい一心でエンゾに身を捧げたネリーの受けた心の傷は計り知れない。


 エンゾは始めからレイモンやブラントーム家の存続について便宜を図るつもりなどなかった。約束が違うと激昂するネリーに対しても「勝手に死んでしまっては便宜するものも出来ない」と嘲るように言うばかり。悪戯に心と体を汚されてしまった己の境遇にネリーは激しい絶望を感じる。彼女の精神状態はもう限界だった。


 レイモンの訃報が伝えられた翌日、監視の目を掻い潜ってネリーはルメルシエ家を脱走。時を同じくして、恋仲であるギー・バルバストルも父トマの前から姿を消した。


 ※※※


「姉さんがこれを?」


 トマやサロメと手分けをして二人の行方を追っていたアランは領内で、ネリーの侍女だった女性から一通の手紙を受け取った。一連の騒動によりブラントーム家の今後は見通せず、悪評によって迷惑がかからぬよう、臣下や使用人には暇を出して屋敷との距離を置かせていたが、ブラントーム一族を慕う多くの者は、何時でも助けになれるようにと、ほぼ全員が領内へ留まっていった。その中で、最もともに過ごす時間の長かった侍女にネリーは手紙を託していたのだ。


「……駄目だ姉さん」


 手紙の内容にアランは愕然とした。それは激しい絶望を感じたネリーが愛する弟への謝罪を綴った遺書であった。


『私は何も守れなかった。無慈悲な悪意を前に心と体を弄ばれただけだった。それはこれからも変わらない。このままでは私は一生、あの男のみにくい鳥籠で飼われるばかり。ならばせめて、最期の時ぐらいは自らの意思で選びたい。愛する人と共に悪意に満ちたこの世界を旅立つ、それだけが唯一私に残された自由なのです。アラン、家族を守れなかった姉を許してください。愚かな選択をした姉を許してください。どうかあなただけでも、生き抜いて希望をつないでください。あなたのことを愛しています』


「何だよこれ!」


 アランは感情的に手紙を握り潰した。次の瞬間、屋敷のある方角から激しい爆発音が木霊した。火の手が上がり、宵闇を照らす。誰かが叫んだ。ブラントーム家のお屋敷が燃えている。


 そんなことがあっていいはずがない。

 強く気高い姉がそのような結末を選ぶはずがない。

 全ては悪い夢に決まっている。

 アランは燃え盛る屋敷へ向かって夢中で駆けた。


「屋敷が燃えている……」


 アランが到着すると、住み慣れた屋敷の至る所から火の手が上がり、屋敷全体がすでに猛火に包み込まれていた。騒ぎを聞きつけ、別の場所を捜索していたサロメやトマも屋敷へと駈けつけた。


「姉さん! 姉さん!」


 ネリーは中にいる。文面から察するにきっと恋仲だったギーも一緒だ。エンゾは籠の鳥となったネリーの逃走を決して許さないだろう。愛するギーと再会し一時の幸福を噛みしめても、絶大な権力を誇るルメルシエ家を相手に逃避行を続けることは難しい。その行為は残された唯一の家族であるアランの首を絞める行為でもある。


 精神的にも追い詰められたネリーの逃走先は、死以外には存在しなかった。ギーもまた、ネリーと添い遂げることを躊躇らわない。


「いけません、アラン様」

「離してくれサロメ! 姉さんが、中に姉さんが!」

「火はすでに屋敷中に燃え広がっています。アラン様を行かせるわけにはいきません」


 すでに入口や複数個所が崩れ始めている。今屋敷に入ればアランまでもが命を落としてしまう。それだけは絶対にさせてはいけない。混乱状態にあるアランに対し、サロメは抱き留めるように懇願した。


 中にはネリーだけではなくギーもいる。愛する者と共に最期の時を迎える決断をした息子の胸中を思い、トマは沈痛な面持ちで目を伏せた。


 機会などなかった。「今は機を待て」などと偉そうなことを言った過去の自分を恥じずにはいられない。ギーはあの時すでに、命をも投げ出す覚悟を決めていたに違いない。そんなことも見抜けずに何が諜報員か。何が父親か。大局を見据えるがあまり、大切な家族の変化を見落としてしまっていた。


「……ギー、ネリー。私は何も出来なかった。無力な私を許せとは言わない。せめてアランだけは私が守ってみせるよ」


 トマは懐から一通の手紙を取り出した。ネリー同様、ギーも家族であるトマに遺書を残していた。そこには腐敗した貴族たちに対する怒りと、愚かな決断をすることを父に謝罪する言葉。そして一人残されるアランのために、最後に自分に出来ることについて、強い覚悟の下に文章はしたためられていた。


「アラン、今すぐこの場を離れるぞ」


 決意を固めたトマは、膝から崩れ落ちたアランの腕を引いて立ち上がらせた。


「中に姉さんとギーさんがいるんです。助けないと」

「もう手遅れだ。ギーも遺書を残していた。恐らく二人は屋敷に火を放った後、火が燃え広がる前に自死している」


 助けに入った者が巻き添えになることを避けようとしたのだろう。ギーは遺書に自死の手順を記し、状況はすでに手遅れである旨を記していた。非常な現実にアランは打ちのめされる。


「落ち着いて聞いてくれアラン。君は今日、この火災で死んだことにする」

「トマおじさん、何を言っているんですか?」

「ギーの背格好は君とほぼ同じだ。ここで死んだのはネリーとアランの二人だったということにするんだ」

「意味が分かりません。僕にはそんなことは」

「これはギーの意志だ!」


 ギーの死の直後とあっても表面上は平静を貫いていたトマが、初めて声を荒げた。父として何もしてやれなかった。ならばせめて最後の願いぐらいは叶えてやりたい。


「最愛の人との別れさえもまともに遅らせてやれないことを心苦しく思う。だが、君の姿を今大勢に見られるわけにはいかない。頼む、今すぐ私と共にここを離れるんだ」


 鬼気迫る様子で説得するトマを前に、アランは静かに頷いた。混乱は未だに冷めやらない。溢れ出す涙の決壊は治まる様子を見せない。それでも、死者の意思と言われてしまえば、それを無碍むげにすることはアランには出来なかった。


「姉さん……ギーさん……」


 トマとサロメの二人に肩を支えられ、アランは燃え盛るブラントームの屋敷を離れた。

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