第31話 ネリー・ブラントーム
「アラン、終わったわよ」
「姉さん……」
エンゾとネリーが二時間ほど二人きりで過ごした後、ネリーがアランとサロメが待機していた執務室を訪れた。その目は泣き腫らしており、着衣には微かに乱れが見える。サロメがブランケットをそっとネリーの肩へかけてあげた。
悪名高いエンゾと二人きりにしてしまえば、こうなることは分かり切っていた。姉を守れなかった己の非力さにアランは激しい憤りを感じていた。
「……アラン、落ち着いて聞いて。私は今からこの屋敷を離れ、エンゾの屋敷へと移る。あなたともこれでお別れよ」
アランの手を優しく握り、ネリーは穏やかな口調で言い聞かせるように言った。
「姉さん、何を言っているんだ? あいつは一体姉さんに何を言った?」
「……お父様の置かれている状況は私達が想像していた以上に過酷よ。このままでは死罪は免れない。エンゾは言ったわ。私が寵愛を受け入れるのなら、ルメルシエ家の名において、お父様に最大限の便宜を図ってくれると。これでお父様の命は救われ、ブラントームの家名も残る」
「そんなの間違っている! 父上は罪を犯してなどいない。それなのにどうして姉さんが犠牲にならないといけないんだ」
突然告げられた理不尽な現実に、アランは混乱を極めるばかりであった。もはや平静の仮面など被っていられない。一人の十五歳の少年として。非常な状況にショックを受けるばかりであった。
「正しさだけではどうにもならないことだってあるの。大きな力の前では理不尽だって現実として罷り通ってしまう。だけど私の身一つで状況が少しでも良くなるというのなら、私は喜んでこの身を捧げるわ」
心優しい弟を思い、理不尽な運命を受け入れたもう一つの理由は口には出さなかった。
父レイモンの命を救うことはもちろん、このままブラントームの名が失墜してしまえば、次期当主であるアランを待ち受ける運命は過酷を極める。愛する弟の未来を思えばこそ、ネリーは理不尽な運命を受け入れようと決心した。例え弟の側に自分の姿が無かったとしても。
「ギーさんのことはどうするんだよ。二人は近い将来きっと幸せな……」
愛する人の名前を出されてネリーは言葉に詰まったが、覚悟を決めた女傑は決してその名に縋ろうとはしなかった。本心ではギーに助けを求めたい思いでいっぱいだったが、自分がそれをしてしまったら、ブラントーム家の未来はもちろん、ギーにだって迷惑をかけてしまう。そんなことになってしまったら、自分自身が許せなくなってしまう。
「私はもうギーには会えそうにないから、ギーにはアランの口からごめんなさいと伝えてちょうだい。私の身柄と引き換えに、あなたの軟禁も解いてもらえることになっている。きっとギーとも直ぐに会えるから。ごめんね、辛い役目を押し付けてしまった」
「辛いのは姉さんの方じゃないか。やっぱり駄目だよこんなこと。俺が姉さんを守る。父上の無実だって俺が証明する。だから行っちゃ駄目だよ、姉さん」
「ありがとう。あなたは優しい子ね。だけどね、これは決まってしまったことなの。私はもう覚悟を決めた。私の事を思うなら、どうかお父様と一緒にブラントーム家を守って」
エンゾに許可された、アランに別れを告げる時間はもう残り少ない。愛する弟の温もりを噛みしめるように最後に力強く抱擁すると、ネリーは突き放すようにしてアランから体を離した。
「サロメ、アランのことをお願いね。あなたの強さでこの子を支えてあげて」
「ネリー様……この命に代えましても、アラン様をお守りいたします」
騎士であるサロメにはネリーに意見することなど出来ず、せめて少しでもネリーが不安を残さぬよう、一生懸命返答することしか出来なかった。
サロメは自分には戦うことしか出来ない人間だと自覚している。
自分達を守ってくれ。今すぐエンゾを力づくで追い返してくれと命じられた方が、どんなに楽だっただろう。そのためなら命だって賭けられるのに。ネリーを見送ることしか出来ぬ己の力不足をサロメはひたすらに恥じた。
「駄目だよ、行かないでくれ、姉さん」
「さようなら。大好きだよ、アラン」
泣き顔を見せぬように背中でそう言い残し、ネリーはブラントームの屋敷を去っていった。残されたアランはその場で泣き崩れ、彼が落ち着くまでサロメはずっと側に寄り添い続けた。
※※※
ネリーを手に入れたことで満足したエンゾは約束通り、直ぐにアランの軟禁状態を解除し自由を与えた。十五歳の少年に出来ることなどたかが知れていると、その存在をそもそも危険視していなかったのだ。
アランが自由の身となったことで、トマとギーの親子はすぐさま屋敷のアランへ面会に訪れた。すっかり憔悴した様子のアランだが、何が起こったのか自らの言葉でしっかりと伝え、ネリーから託された辛い役回りも、沈痛な面持ちながらも果たしてみせた。
「……今からネリーを救出に行ってきます。好色家のエンゾのこと。彼女は辛い目に遭わされているに違いありません」
愛する女性を襲った悲劇を知ったギーは、いてもたってもいられず、感情的に武器に手を伸ばした。レイモン・ブラントーム排除の動きに便乗し、ルメルシエ家の権威を最大限に使い、一方的に執心して止まない女を無理やり手籠めにする。エンゾは貴族以前に人間として腐っている。愛する者を奪われた怒りはもちろん、一人の人間としての正義感がこの悪行を許してはおけない。
「お前を行かせるわけにはいかない。ルメルシエ家に乗り込んでも、お前は捕まり投獄されるだけだ」
「しかし……」
「無策で赴いても犬死だ。それではネリーを救うことは出来ぬ」
激情に駆られた息子の武器に伸びる手を、トマが握り止めた。止めるトマも沈痛な面持ちだ。ここで共にネリーを助けに行こうと言えない自分が情けなくて仕方がない。大貴族であるルメルシエ家は権威、戦力ともに遥かに格上。乗り込んだところで返り討ちに遭うのが関の山だ。愛する者を奪われたギーの激情は察するに余りあるが、親としてみすみす息子を、無謀な戦いに送り出すような真似は出来なかった。
「今は機を待つのだ。此度の姦計の証拠を掴み、企みに関与した者を一人残らず告発してみせる。無論、ルメルシエ家の連中もだ」
「……少し頭を冷やしてきます」
父であるトマがどれだけ尽力してきたかは、一番近くで見ていたギーが誰よりも理解している。今すぐにでもネリーを助けに行きたいという気持ちは揺らぎないが、父親に感情的に反発するような真似もしたくない。今は距離を置くことしかギーには出来なかった。
「アランも大変だったね。直ぐに駆けつけることが出来ずに申し訳なかった。これからは私も君を支える。この窮地を共に乗り越えていこう」
「父上は何も間違ったことはしていません。誰よりも高潔であった父が、無実の罪で罰せられるなどあっていいはずがない。真実は明らかになり、姉さんも戻ってきますよね」
「無論だ。そうでなくてはいけない」
トマは半ば自分にそう言い聞かせているかのようだった。王国の命で諜報活動をしていた頃も、ヴェリテ王子の下で貴族の不正を暴いていた今も、国が正しき形であることを願い活動を続けて来た。何の罪もない清廉潔白なレイモンやネリーが悪意によって虐げられてしまったなら、トマは守ろうとしてきたこの世界を許せなくなってしまう。
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