丘の上の家
@hutonnotomo
丘の上の家
僕の住んでいる家は、海が遠くまで見渡せる丘の上に建っていて、この家には、漁師のおじさんと、おばさんと、僕の三人で住んでいる。僕と同じくらいの見た目の子は、この町に一つしかない小さな中学校に通っているけれど、僕はそこには通っていない。
だって、僕にはこの家に住む前の記憶がないから。
彼らによると、僕は遠い親戚の子供で、なりゆきでこの家に住んでいるらしい。『なりゆきで』なんて、曖昧な言葉でごまかされるほど、僕も馬鹿ではないのに。でも、何度聞いても明確な答えが返ってくることがないので、僕は、僕の過去について聞き出すのを、諦めてしまった。
この家で、僕は自由に出かけることができるし、おいしいご飯を一日三食食べられるから、それでいいと思っている。
おばさんは、学校の勉強にはからっきしな僕のために、漢字ドリルや計算ドリル、そして、日記帳を買い与えてくれた。
「一日の最後に、その日の出来事や思ったことを書くといいよ。文字や文章の勉強になる」
〇
4月13日
はじめての日き。きょう、おばさんがぼくに日きちょうをかってくれた。かんじやさく文のれんしゅうになると言っていた。もっとかんじがかけるようになりたいな。きょう、おじさんがもちかえってきた魚がおいしかった。こんど、なんのしゅるいか、きいてみよう。
〇
春、日記帳を買ってもらってから、毎日、日記をつけることにした。内容は、その日食べたものや、行った場所、思ったことなど。日記をつけると、自分の中身が整理されているようで、すっきりした気持ちになる。
今日は、久しぶりに晴れたので、海岸までスケッチをしに行こう。梅雨に入ってから、雨の日ばかりでうんざりしていたんだ。
おじさんとおばさんは、朝早くに家を出て、仕事に行ってしまうので、僕はいつも一人で朝ごはんを食べる。
朝ごはんは、白米と、昨日の残り物と、あら汁。使い終わった皿を洗い、出かける準備をして玄関を開けた頃には、すっかり太陽が高く昇っていた。僕はそれを見上げて、久しぶりの眩しさに顔をしかめた。
僕は、片手に日記帳を持ったまま、海岸を歩く。そして、きれいな貝殻を見つけると、それを絵に描いた。
僕は貝殻のスケッチに満足すると、海岸に下りるための、石でできた階段に腰掛けた。
そこからは、海がよく見渡せて、遠くの方に浮かんでいる船までよく見えた。海岸には僕一人だけで、時々散歩している人が通り過ぎる程度だ。
僕は、日の光がちらちらと水面を滑るのをじっと見ていた。海岸に響く波の音が、脳みその中で踊るのが心地よい。潮風が僕の前髪をかき上げる。海岸の波はしゅわしゅわと寄せたり引いたりしているのに、水平線は琴線のように張り詰めているのが不思議だな、と、たいして働いていない頭でぼんやり考える。
「こんにちは」
僕は驚いて、声がした方を向く。僕の右隣には、ちょうど僕と同じくらいの男の子が座っていた。
「……こんにちは」
僕がそう返事すると、男の子は満足そうに笑って、海を眺めた。僕もそれに倣うように海を眺める。
「僕はね、君の親友なんだよ」
彼は海を眺めたまま言った。
「親友?」
僕は彼を見る。
「そう、親友」
「親友って、友達の中の友達ってことでしょう。僕たちは今日会ったばかりだよ」
「……そうだね。今日会ったばかりだ」
彼はそう言ったきり、何も言わなくなってしまった。僕は気まずくなって、日記帳をぱらぱらとめくる。
「なあに?それ」
彼は日記帳を覗き込んで言う。
「僕の日記帳だよ」
そう言いながら、慌てて日記帳を閉じる。他人に読まれるのは、なんだか恥ずかしい。
「じゃあさ、今日の日記には僕のことを書いてほしいな。『僕の親友に会った』ってさ」
「気が向いたらね」
「それでいいよ」
〇
あの晴れた日、海岸で声を掛けてきた彼は、僕が海岸に行って海を眺めていると、いつの間にか僕の近くにやってくる。でも、僕はこの海岸以外で彼に会ったことはない。僕は、彼に会うために、晴れた日は海岸へ通った。
彼は、漁師のおじさんなんかよりもずっと、海のことをよく知っていた。魚や貝の種類はもちろん、波の高さや海水の温度まで。
彼は、漁に出ないほうがいい日も教えてくれた。僕はその話をおじさんにした。最初、おじさんは彼の言うことを信じてくれなかったけれど、一度、天気が急変したことがあってからは、信じないと言いつつ、漁には出ていないらしかった。
梅雨が明けて、いよいよ夏が始まろうとしている頃、僕らはすっかり打ち解けていた。今日も、彼は僕の隣に座って、海を眺めている。
ふと、気になっていたことを聞いてみる。
「ねえ、君はいつもどこから来るの?町では一度も会ったことがないし、こんな時間に僕と遊んでいて、学校に通っていないみたいだけれど」
君は、にやっと笑う。
「どこだと思う?」
「分からないから聞いてるんじゃないか」
君は僕に目配せして、正面を指さす。
「……海?」
僕は眉間に皺を寄せた。
「そうさ」
君はいたずらが成功したみたいにケラケラ笑った。
「へえ」
「あれ?驚かないの」
「いいなあって思ってさ。あのきれいな青の中をスイスイ泳げたら楽しいだろうなあって」
「……ふうん」
「あ!忘れてた!」
僕は慌てて、背負っていたリュックの中を探る。
「君も食べるだろ?」
僕は、少し柔らかくなっていたカップアイスを二つ取り出して、一つを彼に差し出す。
「なにこれ」
彼は心底困ったような顔をしていた。
〇
夏本番、あまりにも日差しが強いので、数日の間、海岸に行かなかった。
数日ぶりに、夕方、海岸へ向かう。その道中、彼のことが頭をよぎる。彼は僕がいないときは何をしてすごしているのかなあ。
海岸について、すっかり定位置になった階段に腰掛けて、鮮やかな橙に染まった海を眺める。海岸には、家族や、近所の子供たちが、海岸でそれぞれの時間を過ごしている。
ふ、と視界の端の人影に目を引かれる。その足取りはおぼつかなくて、時々砂に足を取られて転んでいる。僕はその人影に見覚えがあった。
「おーい」
僕は立ち上がり、声を掛ける。人影は、僕に答えるように手を振る。
僕が彼と出会う頃には、彼は砂まみれで、息を切らしていた。
「どうしたんだよ、そんなに急いで」
彼は、髪から滴る水滴でぬれた顔を、ぬぐいながら言う。
「君、僕を忘れてしまったのかと思った」
大げさだな、と思ったが、彼が本気で心配そうな顔をみると、言い返すことが出来なかった。
「忘れてないよ」
「そっか」
君はその場にしゃがみこんで僕を見上げる。
「でもね。君、僕を忘れて行ってしまったんだよ」
〇
翌日、僕は朝早くから海岸にいた。昨日の彼の様子に、少し申し訳ないと思ったので、せめて今日は朝からいようと思ったのだ。
朝の海岸は、まだ涼しくて、聞こえるのは波の音だけだ。淡い青が空全体に広がって、海が暗闇から目覚める。
僕はその様子を日記帳に描く。鉛筆しか持って来ていないのが惜しい。
日記を書くのにもすっかり慣れて、僕の生活の一部になっていた。漢字も随分書けるようになった。
「おはよう」
「ん。おはよう」
「君、絵がうまいんだねえ」
彼は眠そうな目を擦って、濡れた髪をかき上げながら、僕の手元を覗き込んだ。
「今日は早いね」
「うん。昨日、君に申し訳ないことをしたと思って」
僕がそう言うと、君は頬を緩めて、「律儀だなあ」と笑った。
「はい。これ」
そう言って、彼は僕の掌に、小さな石のようなものを押し付けた。
「なにこれ」
「君にあげるよ。僕の大事なもの」
君は恥ずかしいのか、僕から顔を背けている。
「ありがとう。これ、奇麗だね。でも見たことないな」
「君の忘れ物だよ」
「忘れ物?」
「そう」
僕は、僕が何かを忘れていることすら、忘れているらしい。
「任せてよ、僕は記憶力がいい方なんだ。君が忘れても、僕が君の分までずっとずっと覚えているよ」
「それは頼もしいな、ありがとう」
そう言うと、君はこの宝石と同じ、黄色の瞳をこちらに向けて、嬉しそうに笑った。
彼がずっと覚えていてくれるなら、僕は流されずにこの世界に留まれる気がした。
〇
9月4日
彼に宝石をもらってから、三日が経った。
彼と、僕について、書き記しておく。
彼は、人魚だ。そして、僕の親友。僕らは人魚として海の中で長い間一緒に過ごしていた。その生活が終わったきっかけは、僕が今、一緒に住んでいるおじさんとおばさんに会った頃だ。
僕らが彼らに出会った頃、幼馴染で同級生の彼らは、まだ幼かった。きっと小学生くらい。あの頃、僕は陸のことが知りたくてたまらなかった。だから、彼らが話は、僕にとって、すごく魅力的だった。そして、陸に住みたいと思うようになった。
だから、お金をためて、人間になる薬を買った。その薬は、人間のおとぎ話に出てくるもののように、一度では効果を得られない。少量を何度も服用し、水中と陸上を行き来しながら、環境に慣れる必要がある。それから、完全に人間になると、人魚であったころの記憶がなくなってしまう。
彼は、僕が人間になるのに強く反対していた。彼は、好奇心に殺されるぞ、と僕を叱った。
そして、僕は彼を、慎重すぎる、と笑った。
陸に住むなら、彼らのどちらかの家を借りればいいし、僕の記憶は、彼が持っていれば十分だと思った。僕がお金をためて、人間になれた頃には、彼らはすっかり年を取ってしまっていたけれど。
結局、僕は人間になり、彼は人魚のまま生きた。
僕がこれらを思い出すことが出来たのは、彼が、彼の『涙』をくれたから。それが唯一、人間になった人魚が記憶を呼び戻せる手段なんだ。人魚は、一生に一度しか『涙』を作れない。
彼は、僕にたくさんのものをくれた。だから、せめて、僕も君にこの日記を送ろう。人間としての僕の『涙』だ。
もう、海に帰ろう。
〇
ああ、ようやく薬が安定してきた。
やっと君に会えるよ。
陸でも二人でうまくやっていけるさ。なんせ、僕らは親友なのだから。
僕は薄れる記憶の中、丘の上の家を目指す。
丘の上の家 @hutonnotomo
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