Umi

最悪だ。

最悪という言葉も生易しい。

朝から大雨で、会社に着いた頃にはずぶ濡れ。未だに家じゃ出来ない仕事を残している究極アナログ会社なんて潰れてしまえ。日にちの融通くらいきかせてくれよ。

大雨の胃は日本の経済が1日止まる、とか。常識になってしまえば誰の異論も受けないでしょう。常識とは”大多数”の意見でしょう。

人だけが多い。人とビルだけが多い。人とビルと鳩だけが多い東京に災害級の雨が降ったら日本の10分の1は動くと思うけれど。土石流として流れる何かは東京は少ないかもしれない。けれど電車は遅れるし、今日のようにブレーカーが落ちて修復データが修復不可能なところまでぶっ飛ぶということが起こる。

ただでさえ後輩の尻ぬぐいを押し付けられただけで堪えたため息が肺を埋め尽くしていたのに。このくらいならすぐに終わる、といい気分になったのもつかの間。これを1日中やってサボるいい口実になった、とか思ってい天罰なのだろうか。

こまめに保存をしよう。そのこまめ、の区切りがやってきた瞬間。あとはクリックするだけだったのに急に会フロア中が暗くなった。

雨が降っている分、当たり前のように太陽は出ていないし、どんよりとした雲が本来デフォルトでは晴れている空を覆い隠しているから外は夜のように暗かった。量産されている太陽が1つ消えてしまった。

「大丈夫か!?」

「なにっ、これっ!」

「暗いな…危ないからとりあえず動くな!懐中電灯か、スマホで灯を確保しろ」

「俺、ブレーカー見てきます!」

それが運悪く俺たちの会社というわけだ。

ふざけんな。

思わず机を全力で叩きそうになった。大人の理性で寸前で止めた。裸のいい女が真横に寝て襲うな、というよりも心に来た。

完全に修復が出来なくなった。バックアップをいじくっていたのだから。

後輩にはバックアップを忘れないよに。必ず2つ以上の媒体でアクセスできるように保存しておくこと、と教えられた通りに教えていたのに。

元データをいじくっていたものだから。そんなこと、起こり得てたまるか。

これがプレゼン用のデータならばよかったものを。もう一度作り直せばいい。けれど会社の決算のデータだった。集めた領収書やら、雑多な資料を一から入力しないといけなくなった、というわけだ


地獄へようこそ、って感じ。


「おい、データ大丈夫か?」

隣の同僚が声をかけてくる。

「ぶっ飛んだ」

「マジか」

笑うんじゃねぇ。

顔面に入れるぞ。

「1から?」

「そう」

「捨てたって言ってなかった?」

「捨てるのは水曜日。まだ2日間あるから捨てられてはないはず。でも、提出〆切が1週間」

「終わったな」

「はは、苦笑い」

「頑張れよ」

「手伝ってくれや」

「拒否する」

よし、もしコイツがピンチに陥っても俺は笑顔で見捨てよう。今誓った。

成人独身男性の独り暮らしとは恐ろしく雑。朝準備、とかネットに投稿しているのはごく一部。生乾きのシャツを着なければいけない状況なんてものは山のように存在する。それと全く同じ今、背中が気持ち悪すぎて、気分の落下に拍車がかかる。

後輩に当たり散らかしたい。

お前がミスしなきゃこんなことにはならなかったんだよって言ってやりたい。

俺は大人なのでそんなことはしないけれど。

「ちょっと、経理行ってくるわ」

「おー!ついでに安否確認もしてきてくれ」

「了解す」

ジャケットの湿り具合をさっと確認してスマホのライトを点けて俺のいる部署を出た。経理はこの1つ下の階。エレベーターは止まってるだろうし、このおんぼろビル全体が停電ってことも全然あり得るだろうし。

足早に階段へ向かった。

安否確認や、経理に書類をもらいに行くという用事をさっさと済ませて、喫煙所で1本だけふかしたい。とりあえずニコチンをぶっ込みたい。先輩権限ってことで。

「うわっ」

足を踏み外した。革靴を貫いて足の裏に痛みが刺さる。

「いってぇ…」

散々だな、と軽く舌打ちをした。親には舌打ちは最低な行為だから絶対にするなよ、って教わってきたし、俺自身そう思っているけれど溜め息とは真逆の感情を自分から捨てることが出来るんだ。ってことい大人になって気づいた。

「ちっ」

溜め息は幸せが逃げていく。

舌打ちは不満を吐き出せる。

たった1回舌を鳴らせばある程度のことは吹っ飛んでいく。

「ちーす、経理さん大丈夫っすかー?」

「大丈夫よ。ブレーカー確認してもらってるから」

「そんで、決算書類もらって行ってもいいですか?」

「消した?」

「消した」

同期の女の子が笑いながら俺に言う。

変な角度から照らしているのにめちゃくちゃ可愛いな。今度飯誘お。

「頑張れよ。ほら。この3つね」

「うるせぇ。さんきゅ。じゃあな」

「はいはーい」

分厚いファイル3つを抱えて1つ上のフロアへ階段を使って戻った。

喫煙ルームの場所は分かっている。自販機の近くにある足の長いテーブルのところにファイルを放置。

ドアに手をかけた。

「あー、マジラッキーだわ」

「なにが?」

「いやさ、俺決算ミスったじゃん?正直修復も絶望的だな、とは思ってたんだよ。出来るってわかったし、多分先輩データ全部飛んだんよ。俺の責任ゼロ~」

「流石に謝れや」

「わーってるよ」

ドアに伸ばした手を降ろした。

ブレーカーが直っていなかったのはお前たちのせいか。そして俺の仕事が余計に増えたのはお前のせいか。

「でもさ、会社とか、仕事っていかにサボるかよな」

「それな。真面目にやってもやらんでも金変わんねぇし。俺この生活で満足してるからいいかな~あと2年くらいしたら辞めるかも」

「転々とさすらうのかよ」

正直者が馬鹿を見る。

この世界の縮図をここに見た気がした。

俺は努力してきた自信もないけど、頑張ってないよなって自分には言えない。ある程度頑張ってきたつもりだし第一志望の大学に入った。国立だ。有名じゃなかろうが、何だろうがれっきとした国立。俺の夢だった。

専門的な知識を学べど、需要と供給のバランスに殺されて普通の一般企業に入ることになった将来にあたる年齢も誇っていいと思う。普通や、過不足ない、というのは何よりも自慢していいことだと思う。

人と違いたい、と思うことの方がしんどい。誰だってそう思っている。誰だって違いたいと思っているのに、その『誰だって』という不特定多数に飲み込まれて奇を衒っても誰かの二の舞だから。

それに俺はセンスがない。だからその方向に努力をしなかっただけ。センスがないのに努力をしたら苦しいだけ。

分かってるつもりだった。

この仕事にやりがいをある程度感じていたし、仕事ってそれで良いとも思っていた。アルバイトとかいかにサボるか。効率的にサボるか。それしか考えていなかった。その過去は認めよう。

「馬鹿が…」

敬え。

少なくとも数年間、お前らよりこの会社に貢献してきた。何の社会の為にもならない会社ならとっくに潰れているはずだ。どこかの一端は担っている。

俺が真面目なのがものすごく馬鹿みたいじゃないか。

ファイルを抱き上げて、帰り際にブレーカーを下げてからもう一度上げた。自然復旧ということにしておいてやろう。実際ブレーカーは落ちてなかったわけだから何か配線の問題だろうし。

その修理も呼ぶのか。前にも来てたな。

死ね、俺の中の真面目。

「おかえり。あった?」

「あった。大量のが」

「はっ、頑張れ」

「言われないでもやるわ」

「今日のみ誘おうと思ってたのにこの調子じゃ無理そうだな」

甘い誘いに頭が勝手に反応する。

「行く。明日から本気出す」

「明日もやらない奴のセリフだぞ」

「知ってる。でも今日は潰れるまで飲む。介抱頼んだ」

「マジかよ。まぁ、俺は何の害もなかったしな。今日は許そう」

心の広い動機の優しそうな表情で心の中が弛緩する。とりあえず帰る時刻まで打ち込みの作業を始めた。雑務は好きだ。見たものをそのまま打ち込めばいい仕事なんて特に。頭の中で別のことを考えられるから。

しかし今日はそうはいかなかった。後輩の言葉の羅列が頭の中を渦巻いて離れようとしない。ロボットになればいい。心を殺せばいい。

仕事だ。割り切れ。やらなきゃ死ぬ、だからやるのが仕事なのに。私情を持ち込むから辛くなる。

泣きそうになる。

「あー…」

付け加えた。

「終わらねぇ」


ビールのジョッキを掲げる。既に酒臭いおっさんたちの隣の机だった。声が大きくてまだ素面の俺たちの乾杯の声はかき消された。

「あー、死にてぇー!」

「今日のお前はそう思っても仕方ない」

「普段の俺は能天気に見えていると?」

「そうは言ってねぇだろ。あ、枝豆もう1皿お願いしまーす」

もう半分以上飲んだ酒豪で社員旅行の宴会で場をざわつかせた同僚は慰めと思える言葉を一応くれた。

「んで、何があったん?」

「別に…」

「なんかあっただろ。その反応はさ~。めんどくさい女かよ」

「違う」

「知ってる。そんなごつい女嫌だ」

「俺は女じゃない」

「だから知ってるって」

時代にそぐわない考え方かもしれないけど女々しい男は嫌いだ。なよい男とか、すぐ泣く男とか。そんなんで女を守れないだろってすごく思う。守る必要のない女もこの世にはいるけれど。やっぱり夢に思うんじゃないだろうか。かっこいい男に守られたい、と。

俺は思ったことがない。

突っ伏したままの俺は特に突っ込んでこなくなった同僚には抱かれたい、と若干思ってしまった。疲労故。ヒーロー故。ヒロイン故じゃない。

「唐揚げ食う?」

「いらない」

「レモンは?」

「サワー」

「はいはい。あ、すいまーせん!」

「すぐお伺いしまーす」

今時どこの居酒屋もタッチパネルにすればいいのに。めんどくさいだろ。

忙しそうな空気が抜けてきた10時まで居座った。駅のはずれにあった居酒屋から最寄りの駅まで歩く。雨は会社を出ることには止んでいて、今はそれが嘘だったんじゃないかと思うくらい澄んだ空が広がっている。

寒い空気が頬に突き刺さる。

「公園通ろうぜ。近道近道」

よろよろ歩く俺の背中を押して公園の方に歩みを進める。オメガの形をした鉄のポールを酔った俺は器用に避けた。

ふと足を止めた。

「・・・死にてぇなぁ」

「俺いるやん」

「クソ自惚れ野郎。死ね」

「急な悪口。超元気じゃん」

「死にてぇわ」

褒められる、っていうのが一気に減ったなって言うのが社会人7年目の感想。7年目にして慣れないことはまだ残っていたらしい。

急に来るんだ。これが老化ってやつなのか?

無駄に精神がか細くなってしまうのは上の方に行くにつれて、寄りかかれる大人が減るからなのか?頑張って来たことが認められた結果上に行けるはずなのに、認められた気がしたいのはどうして?

涙が出てきた。急すぎる。

「あ”-…しんど」

「しんどいよなぁ~」

「俺ばっかムキになってんのすっげぇ馬鹿みたい」

「まーお前馬鹿だしなー」

「うるせぇよ」

死んだら楽になれるのかな。この先を生きていくだけの希望というか、そんな大それたものじゃなくていいんだけど必要そうな何かが、ないな、って思った時は今までの人生幾度となくあった。

その度に理由をつけて死ぬのを先延ばしにしている。

「死にてぇ」

「俺いるのに?」

「お前は俺の何なんだよ」

「こうやってたまに話を聞く相手。俺優しいから毎日聞いてやってもええけど?」

顔を見たら優しそうな太い笑顔で笑っているんだから。

顔を覆って、髪の毛を掴んだ。痛いくらいに引っ張った。痛みがないと生きているかどうか分からない。この世界のジオラマに同化しちゃっている気がする。そんなことを考えてしまうなんてどうかしている。

全部分かってるのに、全部理解出来ないんだ。

「今度さ、どっか行こうぜ。温泉とか、遊園地とか」

「三十路に遊園地はほぼ死刑宣告」

「社畜だなぁ~お前は本当に」

「うるっせ」

涙が止まったところで俺たちは歩き出した。

「お疲れ」

「さんきゅーな、なんか、いろいろ」

「俺あんま悩むって知らないからさ。人間味あっていいと思うよ」

「お前はロボットか」

「かもね」

酒が入った顔で笑うもんだから。

「お前も、お疲れ。今日だけじゃなく、いっつも」

「俺のこと好きなの?」

「違うわ!あー!もう前言撤回!知らん、お前のことなんて知らん!」

「ははははっ!元気出たじゃん」

軽く蹴ったら、街頭でぼやけた輪郭を持つ俺たちの影が深海魚に見えた。きっとまだ発見されていない深海にひっそりと生きている魚の。それが俺とコイツの関係なんだと思う。

友情でもなく、決して恋人でもない。それ以上なんだけど、それ未満。それ未満だけど、それ以下じゃない。含んでいるけれど、含んでいない。仲間はずれがあって、仲良しこよしがあるような。


駅で別れて自分の家に向う。

寒さで頬が赤い人が多い中、俺は目元が赤かったと思う。


「お疲れ、ウミ」


傘立てに入れた豪雨を耐えた傘に。

7年使い続けている本革の通勤バッグに。

その中でパソコンのことを守った防水のパソコンケースに。

ついこの間買い換えたばかりで今日がデビューだった革靴に。

靴擦れした俺の踵に。

戦った衣類に。

含んだ雨水に。

生きた俺に。


ーーー

あおいそこのでした。

From Sokono Aoi.

ーーー

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