第27話 人の話

子供の頃から散々いわれてきた。


人の話はちゃんと聴きなさいと。


人の話を注意深く聴けば、大抵のコトはその中に答えが見つかる、と。





幼いころは素直で大人が大好きだったわたしはその言葉を鵜呑みにして生きていた。


確かに人の話を聴くコトはだいたい歓迎されたし咎められるコトは無かった。





でも、本当にそう?





そんな疑問を持てるようになるには、数十年かかった。


何とも強力な呪いだったと、今は思う。





そう、これは呪い。





人の話の全てが無価値か、無意味か、というとそんなコトもないと思う。


無価値で無意味な話もあれば、有意義で為になる話もある。


まああたりまえか。





わたしは「なんでも人の話はしっかり聴く」は「どんなに無意味な話でもわざわざ理解する努力と時間を浪費して付き合う」といい替えられると思っている。





人の話を聴く時には、それなりに理解しようと頭を回転させて時には疑問をもって質問したりもして、ジワリジワリとカロリーを消費する感じ。 





他人の言葉を理解するのは、想像以上に疲れるコトだと思う。


体を動かしている訳ではないからパッと見は気付きにくいけどものすごーく疲れる。





仮に話を聴く相手が長年付き合ってる恋人(わたしにはいないけど)だった場合は消費カロリーが軽減されるかもしれない。





それでもゼロじゃない。





相手いってるコトを把握する為に実は複雑な思考をしているし、最悪の場合努力の甲斐無く理解できないコトもあるよね。





それ程リスキーなコトだとした上で、さて誰の話は自分にとって価値があるのか、なんて考え出したら、人の話を聴いてる暇なんかなくなって本末転倒ループに陥りそうになる。





いつでもいつ迄も価値のある話なんて存在しない。


このコトに気が付いて欲しい。





ちょっと長い目で歴史を振り返れば判るけど(ちなみにわたしは学校教育としての日本史や世界史は大嫌い)、善悪、常識、礼儀、とかとかの社会通念は時代や場所が違えばまるで変わってくる。


同じ日本でも、20年前の常識は真逆の解釈に改変されているコトだって珍しくないでしょ(例えば育児の常識とか)。





これは年単位だから起こっている変化?いやそうじゃないとわたしは思う。





毎日、毎時、もしかしたら毎秒だって変化は起こっていて、ほんの数分前の常識は今や非常識となっている可能性だってあるんじゃない?





だとしたら、何を信じればいいのか。





それは「今の自分の感覚」以外には有り得ないと思う。


明日の自分でさえ、今日の自分とは違うかもしれないんだから、今決めたいコトは今イイと思ったコトを信じるしかないでしょ。





誰の話に価値があるのかっていう問いは、人によってその答えが違う。





はいあたりまえ。





わたしの恋人(いないけど)の言葉の中に含まれる価値は、会社の同僚にとって等価かっていえばきっとそうじゃない。


それも今日と明日でまた違ったりする、かも。





つまり人の話を聴く時、その相手の言葉の中に自分にとって価値ある言葉が含まれているかは前もって決まっているんじゃなくて、聴いたその瞬間に自分が決めて変化するんじゃないかな。





自分が全部決めている。





こう考えると、わたしは「絶対的な価値のある話」なんて無い、と思えるようになった。


誰のどんな話をいつ聴いても、いつでも価値ある話に解釈出来るし無価値におとしめるコトもできる、って。





広告やプロモーションの言葉には嘘があってみんなは騙されている、なんてコトを耳にする。





例えばはてな界隈では、ブログやメディアでの発信に値段をつけてサービスを展開したり、情報商材とかいうヤツでノウハウっぽいのを売ってたり。





わたしはそういう商品やサービスに価値を感じないタイプ。


でもそれも絶対的に価値がないとはいい切れない。


誰かにとっては価値ある情報かもしれないし、誰かにとっては100万円出しても惜しくないと思えるかも。





ある物事の価値はその人の生活とか考え方?とかで変化するよね。





自分にとっての価値を決定するのは自分でしか有り得ないんだから、他人にその価値ははかれないって思う。





他人の価値基準に耳をかすコトもあるかもしれない。


でもその判断も結局は自分でするんだから、やっぱり自分の価値判断の結果じゃないかな。





ハッキリ嘘ってわかる内容なのは別として、選び取った側の判断には間違いなんて無いんじゃないかなって思う。


その価値を感じて対価を支払うコトに納得しているのなら、自然な行為じゃん。


それがお金でも、時間でも。





自分で判断出来ない時は他人にすがる時があるんだろうね。


どうにもできない時に解決策として誰かの助言が欲しくなるとか。


未熟だから、とかいって自分の頭のわるさを理解している気分になって他人を頼る。





馬鹿は休み休みにして欲しい(←コレいいたかった)。





人の意見を頼るっていうのは、すごく傲慢なコト。


自分の決断を放棄した上に、責任ある決定を他人に丸投げするんだから。





そのコトは気付いていて欲しい。





最低限の礼儀としては、少なくとも自分の考えや意見は持った上で、その決定材料が足りないと感じるから助言を貰いたい、とかかな。





自分の考えを持つ程度のコトもしない人間は、お金や時間を使ってどんどん人に自分の人生の決定を投げまくるのがいいよ。


そういうコトで金儲けをしたがっている人はたくさんいるからね。





あ、わたしは他人と関わりたくないので、以下略。


---


つづく

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