第3話

「もう直ぐ研究が完成しそうだ」

 おお、と私は素直に祝った。それでこそ、私の手伝った甲斐があると言うものだ。

「じゃあ、論文を書くのも手伝おうか?」

 いや、いいよ。博士は断った。自分で始めたものだ、自分の手で完成させたい。確かに、その通りだ。

「それが終わったら」

 博士は空間にスペースキーを打った。空間に空間、とは言葉の妙だが、沈黙した、と言うのも陳腐だ。私はこだわりを見せた。

「君に話したいことがある」

 

 あれから少しして。わたしはわたしに話しかけた。

「ねえ、今日は何回だった?」

「三二回」

 外はもう、夜らしい。この部屋はどこまでも白く、どこか夢のような空気だ。体の中に白が染み出して、吐く息も白くなる。部屋はいつからか蝶に姿を変え、ぐしゃりと潰れた。

「ぼ、わたしは大丈夫だった?」

「うん、大丈夫だ、よ」

 

 夢から目が覚める。何か、とても奇妙なものを目にしたような、それも常識であるような、まだ夢の中かと思うほど意識が曖昧模糊としたものとなっている違和感が襲った。

 隣に寝る妻を見て、その寝顔に微笑む。こういう場合、幸せそうな、だとか、子供みたいな寝顔に微笑むのだろうか。しかし彼女は至って深刻な表情で、ある種の安心を感じた。

 妻を起こさないよう、慎重にベッドを出る。カーテンも開けなかった。代わりにスマートホンの光を浴びる。

 

 『のぼせた犬は生き残るために鬱蒼としげる火星に行ったらしい。また、そこで現代文学をイヤフォンと嗜んだ子猫たちは、十一個の椅子にそれぞれ座ろうとする。でもそのリモコンは笑顔があるから、わくは

「だいじょうぶ?」

 といった。わくは

「ぼくじょうは筆ペンでできたサッカーボールなんだ」

 ときいた。』

 

 子供は時折、面白いこと、否、意味のわからないことを言う。そんな言葉をどこで覚えたのか、ということも多い。

 ほぼ全ての人間は幼少期のことを思い出すことができない。それは私も例外ではなく、幼少期のことなど覚えていない。言語能力が完全に形成されていないため、記憶の仕方がないのだろうか。かろうじて、こんな景色、やこんな感じ、のような霧に包まれたような記憶は掘り起こすことができるが、音声記憶はからっきしである。

 妻の研究分野は心理学で、記憶や人格についての研究がほとんどだ。子供の頃は思い出すことができない。だが、今。妻や娘はどんな景色を見て、どう考えているのか、それを想像するのも一つの魅力だ。

 大丈夫。きっと上手くいく。陳腐な台詞を思い浮かべ、私は苦笑した。

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