第10話 如意宝珠

 朝起きると、しとしとと龍宮に春雨のような雨がふった。

 夏にしては珍しい降り方だ。

 たいてい夏には強い雨や夕立が降るものだ。


 そういえば、藤の村ではここのところ、夕立さえ降っていなかったことを思い出した。


 雨なので洗濯も狩りも出来ず、水やりも必要ないので、藤たちは四人で茶菓子をつまみながら茶をのんでいた。四人、とは、いつもの四人だ。葵龍、藤、錦、彩。


「この雨は葵龍さまの神力で降らせているんですか」

 

 雨の神とあがめられている葵龍なら、これくらの雨は降らせられるだろう。

 しかし、返ってきた答えは意外なものだった。


「いいえ。私の力ではありません。これは自然の力、雨雲が降らせているのです」

「そうなんですか? 雫村にも降っているでしょうか」

「ええ、きっと。雫村とここは、きのう藤と行った山をへだてた隣同士にありますからね」


 そうか、雫村にもとうとう雨が降ったんだ。藤はホッとした。

 少しの雨だが、これで家族も少しは潤うだろう。


「そもそも今年は何故、こんなに雨が降らないんでしょうか」

 

 聞いた藤に錦が菓子を頬張りながら言う。


「異常気象ってやつだな!」

「異常気象?」


 それを彩が受けて応えた。


「天候が例年とまったく違うということだ」


 藤は不思議に思って葵龍に聞いた。


「その辺の天気の調整は、葵龍さまがやっているんじゃないんですか?」


 葵龍はそれを聞いて眉を寄せて困った顔になった。


「私はたしかに雨を降らす手段を持っていますが、雨に関しては万能ではありません。特別な力はもっているけれど、それを使うことはほとんどない。天気はやはり天が決めるものです」

「葵龍さまは天からいらっしゃったのではないのですか?」

「……さあ。私は生まれたときから、龍宮にいますよ」


 葵龍は目を伏せて憂い顔になる。

 

 そういえば、葵龍神は人間のように寿命があり、人間ほどの寿命だ、と藤は聞いていた。

 生まれた、ということは、葵龍にも人間のように親はいたのだろうか。

 

「……聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」

「ええ」

「ぶしつけな質問だったらお許しください。葵龍さまに父上や母上はいらっしゃるのでしょうか」


 葵龍は一瞬、面食らった。

 しかし、すぐに平静になる。

 どこまでも落ち着いていて、穏やかだ。


「なるほど、確かに意外な質問でした。私には父と呼ぶべき師匠がいましたが、人間のように両親はいません。私が生まれたのは、師匠の手からです」


 ……手?

 

 突っ込むべきなのか、流すべきなのか。藤にはいまいち意味が分からなかった。

 

「師匠は――先代の葵龍神は、やはり薬学に優れていて、とても賢かった。私は師匠からそれらを叩き込まれ、今は薬師のようなことをして里の人々を診ています」


 一呼吸おいてお茶を飲むと、葵龍はまた口を開いた。


「だから、天から来たわけではないのです。天は天。雨も晴れも天気は気まぐれに変わります。私が起こす力など、微力なものです」


 話が終わるとお茶を飲む。


「でも、葵龍さま、『如意宝珠にょいほうじゅ』があれば、雨くらい降らすことが出来ますよね!」

「そ、そうですね……」


 誇らしげに言った無邪気な錦の言葉に、葵龍が一瞬固まった。

 顔がこわばり、声が上ずってどもっている。


 明らかな動揺が見てとれて、藤は、はてと思った。

 

「如意宝珠? なにそれ」

 

 初めて聞く言葉なので錦に確認を取る。


「葵龍さまがもって生まれてきた、葵龍さまの宝物。なんでも願いが叶う珠のことだよ」

「なんでも願いが叶う珠? それって、むかし葵龍さまがなくしたって言って私が見つけた珠のことですか?」


 藤は葵龍の顔を見た。

 葵龍はうなずいて、懐かしむように藤を見る。


「ええ、そうです。あのときは、龍の姿で空を飛んでいたのですが、如意宝珠をあの森に落としてしまったんです。師匠にこっぴどく叱られて探していました」


 苦笑と共に、またお茶を飲んだ。


「今もそれはあるんでしょうか? それがあれば雫村に雨を降らせることができるのでしょうか?!」


 勢い込んで葵龍を見たが、彼は何か緊張しているようだった。


「いま、如意宝珠は、私の手もとにはありません」

「え? それじゃあ、どこにあるんですか?」

「南にいる昼と光を司る蘭鳳らんほう神のところに、たぶんあります……」


 それを聞いて藤はがっかりした。

 それにしてもどうして葵龍の如意宝珠を南の蘭鳳神がもっているのだろうか。

 それに「たぶん」とは。


「えっと、またぶしつけな質問かもしれませんが……」

「……ええ、なんでしょう」


 葵龍がまた緊張する。


「どうして、南の蘭鳳神さまが葵龍さまの如意宝珠をもっているんですか」

「あ、ぼくも知りたいです、葵龍さま」

「ぼくも」


 藤の言葉に継いで、錦と彩も葵龍に聞いた。


「それは――」


「それは?」


「蘭鳳は自分の庭をここのように花でいっぱいにしたいといいまして」

「ええ」

「自分で育てようとしても、眷属けんぞく朱砂すさに育てさせても、うまく行かないからというので」

「……まさかその大事な如意宝珠を蘭鳳神に貸してしまったんですか!?」

「は、はい……」


 きまり悪げに葵龍はこたえた。

 だから、葵龍には雨を降らすことが出来なかったのだ。

 

「そ、そんなことの為に……」


 如意宝珠はどんな願いでも叶えることができる珠。

 それがあれば、葵龍に頼んで雨だって降らせることも出来た。

 そして、多くの人が日照りで死なずに済んだかもしれない。


 藤は愕然として、畳に手をついて項垂れた。

 葵龍がそんな藤をみて、目を伏せる。

 

「……申し訳ありません……」

「……」


 藤には神である葵龍が謝っても、それに応えることが出来なかった。

 日照りで村々の人々は多数亡くなっていて。もう帰って来ることはない。

 さらに、藤が生贄に選ばれて家族と離ればなれになることも無かったのだ。

 

「私……今日はちょっともう寝ます」


 ふらふらと座布団から立ち上がると、藤は自分にあてがわれている部屋へと引き返した。


 (神様って……神様って……! 人間のことなんて眼中にないんだ!)


 大きな失望を感じて、涙が自然と湧いてくる。

 とくに、初恋の人である葵龍がそんな神であることが、とても悲しく思えた。

 新しく知った事実は、藤を打ちのめした。


 優しくて穏やかでも、葵龍のせいで大勢が亡くなったのだ。


 そう考えると、そのまま部屋の入口にしゃがみ込んだ。

 もう一歩も歩けない。

 涙が枯れるまで藤は泣いた。

 

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