人生の扉は何歳になっても開けられる

春風秋雄

介護士という仕事は楽ではないが、やりがいはある

「タチバナさん、食事の時間ですよ。食堂へ行きますね」

俺はタチバナさんの車椅子を押して、食堂へ向かう。タチバナさんは今年92歳になった男性入所者だ。この老人介護施設に入所して半年くらい経っている。この老人は俺が担当する入所者のひとりだが、自分で食事はとれない。食事時間は俺が介助することになっている。食堂へ行くと、すでにテーブルについて食事をしている入所者もいる。半数以上は自分で食事をとれる人たちだ。自分で食事がとれない入所者には俺と同じように介護士が横について、介助している。その中で、中林豊子さんだけは施設の介護士ではなく、身内の人が食事の介助をしている。長男のお嫁さんである中林麻佳(あさか)さんだ。ほぼ毎日、夕食時だけは施設まで足を運び、食事の介助をして、食後は30分ほど中林さんの部屋で過ごしてから帰る。血の繋がった親族ですら大変なことなのに、麻佳さんは血も繋がっていない姑さんのために通っているというのは、本当に大変なことだと思う。実際、豊子さんのお子さんは麻佳さんの旦那さん以外に、旦那さんのお姉さんと妹さんがいるのだが、豊子さんが入所して1年近くなるのに、俺はその二人には、まだ2回しか会ったことがない。別にそのお姉さんと妹さんを責めるつもりはない。二人とも県外に嫁いでおり、家庭もあることだし、なかなか施設に来られないというのは当然だ。そのための施設でもある。事実、他の入所者の家族も県外に住んでいる人は面会に来るのは年に数えるほどしかない。それよりも、地元に住んでいる人でも、面会に来るのは月に1回か2回なのに、麻佳さんのような立場で姑さんに会いに毎日のように来所するのは珍しい。しかも、旦那さんは何年か前に他界されていると聞いているのに。


俺の名前は佐倉譲(さくらゆずる)。45歳のバツイチ独身だ。3年前に会社が倒産して、再就職先を探したが、特に資格も特技もない俺はどこも採用してもらえず、ハローワークの人に介護士なら未経験でも雇ってくれると言われ、この施設に応募したところ、明日から来てくれと言われた。介護という仕事はハードワークの割に給与はそれほど良いとは言えず、どこも人手不足の状態のようだった。介護士というのは、施設で入所者の介助をする人の総称で、特に資格が必要なわけではない。一通りの研修が終われば、誰でも出来る仕事だ。介護士の指導・管理を行うのは介護福祉士という国家資格を持っている人になる。当然、介護士と介護福祉士では給与は違う。介護福祉士の試験を受けるには、3年以上の実務経験、介護職員実務者研修の修了が条件となっている。俺はここで働き始めてもうすぐ3年になるので、いずれは介護福祉士の資格を取ろうと考えている。介護士という仕事は、慣れるまでは体力的にも精神的にも、かなりきつい仕事だと思った。しかし慣れてしまうと、なかなかやりがいのある仕事だ。俺は小さい頃、祖母に育てられたこともあり、老人と接するのは好きな方だ。入所者の多くは認知症を患っている。認知症の人は介護士の言うことをなかなか聞いてくれない。それに苛立つ介護士もいるが、俺は気にならない。認知症の人は同じ話を何度も何度も俺に聞かせる。俺はその都度、初めて聞くように聞いてあげる。逆に俺が面白いことを言ってあげると、笑って喜んでくれる。そして、しばらくして同じ話をしても相手は覚えていないので、また笑ってくれる。同じ話でも笑って喜んでくれる顔を見ていると、こちらも嬉しくなってくる。老人介護施設に入所している入所者は、あと何年も生きられるわけではない。残り少ない日々を、少しでも笑顔で過ごしてもらえたらと思って、俺は仕事をしている。

施設では定期的にレクリエーションなどの催しを開催する。春のお花見、秋の紅葉狩りなどは、外に出かけるので入所者には喜ばれる。また七夕やクリスマスなどの飾りつけも、入所者は喜んで準備を手伝ってくれる。そして年に何回かはボランティアの人達が来て、クラシックやポピュラーなどの生演奏、漫談や落語、マジックなどを披露してくれる。


その日はカラオケ大会を催した。カラオケ大会と言っても、職員が高齢者に好まれる曲を選んで歌うのがほとんどで、中には元気な入所者が美空ひばりや、舟木一夫を歌う。俺は家からギターを持ってきて、弾き語りをした。曲は高齢者にも人気がある谷村新司の「昴」にした。俺が歌い終わったあと、次に歌う希望者を募ると、中林麻佳さんが、手をあげて前に出た。曲は竹内まりやの「人生の扉」だった。独特な3拍子のイントロが流れ、麻佳さんが歌い始める。しっとりとした歌い声はとても素人とは思えず、聞き入ってしまった。


♪満開の桜や 色づく山の紅葉を

この先いったい何度 見ることになるだろう♪


麻佳さんは豊子さんのために歌っているのだ。一年に一度の桜や紅葉を、ここにいる人たちは、来年は見られないかもしれない。だから、ひとつひとつの出来事を大切に、一日一日を生きて欲しいと歌っているようだった。

曲の中に英語の歌詞がある。意訳すると、『老いていくことは辛い。ヨボヨボになってまで生きていく意味はないと言う人さえいる。それでも私は、どんなに老いても、生きていく価値はあるのだと、信じ続けてる。』という意味だ。麻佳さんの豊子さんへの思いが込められた歌だと思った。


麻佳さんが歌い終わったあと、カラオケはお開きとなり、お菓子を食べながらの談笑時間となった。俺は麻佳さんに近寄り話しかけた。

「素敵な歌でしたね」

「ありがとうございます。私、この曲が大好きなんです」

「麻佳さんの豊子さんへの思いが伝わってきました」

麻佳さんはふと俺を見た。

「そんな大層な思いはないですけどね」

「でも、毎日のように夕方来られて、食事の介助をされているではないですか。なかなか出来ることではないですよ」

「私、豊子さんには恩があるんです」

「恩ですか?義理の母親というだけではなくて?」

「ええ。私、子供の頃に両親が他界して、親戚の家で育ったんです。その親戚もそれほど裕福ではなかったので、私は高校には進学せずに、中学を卒業して、豊子さんが経営しているアパレルショップに就職しました」

「豊子さんとは結婚する前からのお付き合いだったのですね」

「ええ。そしたら、豊子さんが「高校くらいは行きなさい」と言ってくれて、定時制の高校へ行かせてくれたのです。昼間はショップで働いて、夜は高校へ行くという生活でした。高校はショップからは近かったのですが、親戚の家に帰るには遠かったので、豊子さんがショップの2階の部屋に下宿させてくれたのです」

「ショップは麻佳さん以外に働いている人はいなかったのですか?」

「夕方から一人だけ年配の女性が手伝ってくれていました。だからその人と私が重なる時間は短かったです。豊子さんは毎日ショップが終わったら私のために食事を作ってくれていました。時々豊子さんも2階の部屋に泊ることもありました。豊子さんのところは3人のお子さんがいて、長女の聡子さんは東京の大学へ行って、そのまま東京で就職していました。私の旦那だった隆司さんは京都の大学へ行っていました。私が3年生になった時に、一番下の千賀子さんが大学で県外に出たということで、家には豊子さん夫婦だけになったので、ショップの2階ではなくて、うちに来なさいと言われて、豊子さんの家に下宿させてもらうことになったんです。高校は頑張って通って、4年で卒業できそうだったので、卒業したらアパートを借りようと思っていたら、豊子さんが服飾の専門学校のパンフレットを持ってきて、ここに通いなさいと言いました。うちの仕事をしてもらう以上は、基本的な知識を持っておいて欲しいからということでした。入学金も授業料も、すべて豊子さんが出してくれました」

「そこまでしてくれたのですか」

「本当に感謝しかないです。高校を卒業して、専門学校へ行く準備をしていると、大学を卒業した隆司さんが地元の会社に就職が決まったということで、家に帰ってきました。つまり、隆司さんと同じ屋根の下で暮らすことになったのです。年頃の男女が一緒に暮らすわけですから、お互い意識しないわけがありません。私が22歳になったときに、豊子さんの勧めで私たちは結婚しました。豊子さんと本当の家族になったのです」

「豊子さんとは、そういう縁だったんですね」

「だから、私にとっては実の親と変らないのです」

麻佳さんは、結婚してからは豊子さんと一緒にショップを盛り立て、ショップを大きくし、現在は3店舗を構えるほどになったそうだ。豊子さんが引退してからは麻佳さんが実質的な経営者として、3店舗にそれぞれ店長を置き、麻佳さんがそれを管理しているらしい。


麻佳さんに「お子さんは?」と聞くと、息子さんがひとりいるが、京都の大学へ行って、そのまま京都で就職したということだった。旦那さんの隆司さんがガンでこの世を去ったのは息子さんが大学に入学した年で、義父もすでに他界していたので、家には豊子さんと二人になってしまったということだ。だから、豊子さんが認知症を患い、ささいなことで骨折を繰り返した挙句、寝たきりになってしまい、仕方なく施設に預けることになった時は、とても悲しかったということだった。


「ごめんなさいね。こんなおばさんの身の上話を聞かせて」

「いいえ。とても良い話でした。毎日のように豊子さんの介助に来られている気持ちがよくわかりました」

「お義母さんは、ガンも患っているようで、年が年なので進行は遅いようですが、もうそれほど長くはないと思います。この人がいなくなってしまったら、私は・・・」

麻佳さんが提出している連絡先家族一覧には年齢が47歳となっていたので、まだ若いのだから、豊子さんがいなくなってもこれから楽しいことはいくらでもありますよと、俺は言ってあげたかったが、麻佳さんが大切に思っている豊子さんが逝ってしまったあとのことを言うのは憚られたので、何も言わなかった。

その日を機会に、俺は毎日のように麻佳さんに話しかけるようになった。次第に麻佳さんの方からも俺に話しかけてくれるようになり、豊子さんの食事の介助が終わってから30分程度、二人で雑談をするのが日課のようになってきた。二人とも歌が好きなので、いつかカラオケに行こうと盛り上がった。


豊子さんの容態が悪くなり、病院へ移されたのは年が明けて間もない、1月の寒い日だった。もう施設に戻ってくることはない。このまま病院で最期を迎えるということだ。いつかはそんな日が来ることはわかっているはずなのだが、ずっとお世話をしていた人がこういう形でいなくなるのは辛いものがある。ましてや、麻佳さんの気持ちを考えるとやるせない気持ちでいっぱいだった。そして、そんな気持ちの中に、これで麻佳さんにはもう会えないという寂しい気持ちも混じっていた。


3月の終わりごろに、麻佳さんが施設を訪ねてきた。無事に納骨も終わり、その報告とスタッフに世話になったお礼をしにきてくれたのだ。施設退所後に親族の方がお礼に来られることはたまにある。施設側としてはお金を頂いてお世話をしていたのだから、当然のことをしていただけなのだが、こうやってお礼に来て頂けると、自分たちの介助に満足いただけたのだと嬉しくなる。麻佳さんはお礼の品として、皆さんで召し上がって下さいと、菓子折りを持参してきた。ほとんどの施設がそうであるように、この施設でも入所者の待遇に差が出ないよう、入所者の親族からの差し入れやお土産は一切お断りしている。しかし、うちの施設では退所後のお礼に関しては受け取るようにしていた。

麻佳さんは帰り際に俺のところに近づき、

「約束していたカラオケ、行きましょうね」

と言って、小さな封筒を差し出した。

封筒の中には、麻佳さんの携帯の電話番号と、LINEのIDが記されたメモが入っていた。


俺が麻佳さんに連絡したのは、4月に入ってからだった。LINEで先日の差し入れのお礼を述べ、俺の携帯の電話番号を送った。すると、すぐに麻佳さんから電話がかかってきた。

「もう落ち着かれましたか?」

「何とか落ち着きました。バタバタと忙しいときは悲しみも忘れていましたけど、落ち着いて、あとは初盆までは特にやることはないとなると、急に一人になった寂しさが湧いてきました」

「今はお一人で住んでいらっしゃるのですよね?」

「広い家にひとりぼっちです」

「じゃあ、気晴らしに、カラオケ行きましょうか?」

「はい!行きます!」

俺の仕事は日勤のときは、朝9時から夕方6時までだが、週に1回11時から夜8時までの遅番と、夕方5時半から翌朝8時半までの夜勤がある。シフトとしては朝7時から夕方4時までの早番もあるが、早番は家庭を持っている兼業主婦が主に担当しており、俺が早番になることはない。基本的に週休2日制だが、曜日は決まっておらず、シフト表を埋めながら翌月の休みを決めるといった感じだった。

一方、麻佳さんは店舗が休みの水曜日と、それ以外の日は、店舗は店長に任せているので、夕方6時以降であれば融通が利くということだった。


連絡を取り合った、翌々日、俺たちは夕方6時半に待ち合わせてカラオケに行くことになった。カラオケボックスの中で食事をしても良いが、せっかくだからどこかで食べてから行こうということになった。和食店に入って、俺は刺身定食、麻佳さんは天ぷら定食を注文した。年上で、収入も俺よりはるかに多い麻佳さんがお金を出すと言ったが、それでは男の面子が立たないと俺が主張し、結局割り勘になった。

カラオケボックスで、二人は競うように歌いまくった。麻佳さんは本当に歌がうまい。3時間があっと言う間だった。最後の締めで麻佳さんが入れた曲は、初めて聞く歌だった。カラオケの画面にはKOKIAの「ありがとう」と出ていた。誰かを失った主人公が、もしももう一度その人に会えるなら、たった一言「ありがとう」と伝えたいという歌だった。麻佳さんは豊子さんにもう一度会って「ありがとう」と伝えたかったのだろう。とても心に沁みる歌だった。麻佳さんは最後の「ありがとう」を歌いながら涙を流していた。それを見て俺も目頭が熱くなってきた。


麻佳さんとは最低週に1回、多い時は週に3回カラオケに行った。俺が車通勤ということもあり、基本的に俺が車で迎えに行き、最後は車で麻佳さんの家まで送って行くといったパターンだった。だから俺はアルコールは飲めない。麻佳さんはお酒が好きみたいで、食事をしているときも、カラオケボックスでもアルコールを飲んでいた。

その日は、麻佳さんの飲むペースが速く、少し酔っているようだった。

「今日はどうかしたのですか?飲むペースが速いですよ」

「息子の結婚が決まったの」

「それはおめでとうございます」

「息子はまだ24歳なのよ。まだ早いじゃない。それに、相手の両親が家を建ててくれるそうで、そのまま京都に住むみたい。長男なのに、自分の親より、嫁の親を優先するなんて、どう思う?」

「麻佳さんは、息子さんに老後の面倒を見てもらいたかったのですか?」

麻佳さんが意表を突かれたように俺を見た。

「そんなことは思ったことなかったけど・・・」

「老後はうちの施設に入所してください。僕がお世話しますから」

「何言っているのよ。そのときは佐倉さんもヨボヨボのジイサンじゃない」

「はは、そうですね。だったら、一緒に入所しましょう。そして、一緒にカラオケを歌いましょう」

俺がそう言うと、いきなり麻佳さんが抱きついてきた。

「いつまでも、何歳になっても佐倉さんとカラオケ歌えたらいいな」

「麻佳さんさえよければ、何歳になってもお付き合いしますよ」

俺がそう言ってキスしようとすると麻佳さんは拒んだ。

「私はもうすぐ50歳になるオバサンよ」

「まだ48歳じゃないですか」

「佐倉さんはまだ46歳なんだから、これから私なんかより若い人と巡り合うわよ」

麻佳さんの拒む手の力が、ことのほか強かったので、俺はこれ以上強引に迫るのは良くないと思い、体を離した。

「麻佳さん、人生の扉を歌ってもらえませんか?」

麻佳さんはジッと俺を見ていたが、機械を操作して「人生の扉」を入れた。やはり良い歌だ。


帰りの車の中で俺の頭の中を「人生の扉」の歌詞がぐるぐる回っていた。

「人生の扉って、本当に良い歌ですね」

「私は、本当にあの歌が好き。毎年ひとつ年を取るたびに、あの歌の歌詞が沁みてくるの」

「“But I feel it’s nice to be 50” 1番の最後のあの歌詞、とてもいいですね」

「みんなが、若い頃は良かったっていうけど、私は50歳になるのも悪くないと思っているって歌詞ね」

「50歳から、また新しい人生の扉が開くのですよ」

麻佳さんは何か考えるように黙り込んだ。

車が麻佳さんの家の前に着いた。麻佳さんが俺を見て言った。

「佐倉さん、家に上がらない?」

俺が「え?」という顔をすると、

「“it’s nice to be 50”よ。私も新しい人生の扉を開けてみたくなった」

俺は、麻佳さんが車のドアを開ける前に、麻佳さんを抱き寄せ、キスをした。

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