第8話 星あそび

 幼い頃のわたしにとって、星といえば祖父母の家、寝室の天井に貼られた蛍光の星型の飾りのことだった。電気を消せばぼんやり浮かび上がるそれは、さそり座やオリオン座、夏の大三角形など季節感も配置もぐちゃぐちゃに天井に飾られていた。暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる淡い緑がかった光のお陰で、夜は怖くなかった。

 物心ついた時には両親がすでにいなくて、わたしはおじいちゃんとおばあちゃん、三人で川の字になって眠るのだ。天井に瞬く、星々を見上げながら。

 おじいちゃんは寡黙な人だった。ミシン製造会社で働いていたというおじいちゃんは、わたしが保育園年中の時にはすでに定年退職していて、小さな畑で庭仕事をしていた。いつもは口数が少ないおじいちゃんだったけれど、お酒が入ると途端に饒舌になって、ニコニコしながらたくさんのお話をしてくれた。

 おばあちゃんはおじいちゃんの会社のミシンを使って、たくさんの物を作ってくれた。保育園の頃にわたしが持っていたスリッパ入れや鞄は、みんなおばあちゃんが作ってくれたものだった。

 両親がいないことに不満を覚えたことはなかった。二人は大切にわたしを育ててくれた。両親がいないからと言って他の子を嫉妬したり、寂しくなったりすることはなかった。


 幼い頃、わたしがはまった一人遊びは、お手玉だった。とはいえ小さなわたしには三つ玉や片手で二つ玉を回すなんて器用なことはできず、ただ投げて遊んでいた。米や小豆が入ったお手玉は投げると不思議な音がした。おばあちゃんは、それを聞いて「海の音ね」と言っていた。

 海の、音。その音はわたしを虜にした。なぜだか不思議ななつかしさがあった。後になって知ったが、わたしは以前、両親と共に海の側の町で暮らしていたらしい。よく海にもいっていて、お父さんに抱き上げられながらひいては押し寄せる波に手を伸ばす写真を見せてもらった。

 そんな音を聞くためのわたしの遊びは、いつしかより大きく音を鳴らすものへと変化した。しゃがんで、両手でつかんで上に投げる。天井に当たって音が鳴り、さらには床に落ちて音が鳴る。

 一度に二つの音を響かせられるその動きを、わたしは何度も繰り返した。だから、天井にぶつかったお手玉が星の飾りに当たって、星が降って来たのはごく自然なことだった。

 遠く、届かないはずの星がわたしの手の中に落ちて来た。そのことに、なぜが無性に心がざわついたのを今でも覚えている。

 星をつかんだわたしは、遠く、耳に残る波の音を聞いた気がした。それから、誰か、男の人の声が聞こえた気がした。誰の声だかわからなかったけれど、なんとなくお父さんのものとは違う気がした。

「まあ、お星さまを捕まえてしまったのね?でも危険だからお星さまには天井にいてもらいましょう?みうちゃんの目に当たったら危険ですからね」

 おばあちゃんは優しい手つきでわたしが固く握りしめた星を離させ、再び天井に飾った。他の星よりも一つ大きな北極星を模した飾りは、そうして再び天井に収まった。なぜだかその星だけは、しっかりと北斗七星の端から五つだけ伸ばした先に、きちんと距離を計って張り付けられた。

 天井の星は、いつになっても変わらず輝き続けていた。その星に見つめられながら、わたしは遠き日の誰かの声を聞いた気がした。

 亡くなった人は空に昇ってみんなを見守っている――果たして、空にお父さんやお母さんがいるのだろうか。もう顔も覚えていない二人を、わたしは探す気にはならなかった。


 おじいちゃんは、おじさんの船でよく海釣りに出かけていた。男の孫がいたら一緒に海に出たかった、というのがお酒を飲んだおじいちゃんのお決まりのセリフだった。女は海に出るものではないのだという。その理由はよくわからなかったけれど、代わりに別の疑問が解決することになった。

 おじいちゃんのお父さんは、船乗りだったという。漁師をしていたというその人は、ある日帰らぬ人となった。船ごと姿を消した彼を、おじいちゃんとおじいちゃんのお母さんはずっと待ち続けたのだという。

 だから、あの北極星だけは、天井にあっても正しい位置に在らなければならないのだと、おばあちゃんは話していた。北極星は、導きの星だから。変わらず夜空にあるそれは、船に乗るおじいちゃんのお父さんを、きっと正しく導いてくれるはずだからと。

 導くって、どこにだろうか。未だに、わたしにはわからない。わからないけれど、おじいちゃんは時折、寝る前に北極星を見ながら悲しげに目を細くしていた。そんなおじいちゃんの横顔を見ていたら、どこか遠くに行ってしまうんじゃないかって、途端に悲しくなって。

 わたしは幼子のようにおじいちゃんの腕に抱き着いた。

 海の匂いがした気がした。波のようにゆったりとしたリズムを刻む鼓動が、おじいちゃんの拍動に重なる。

 ゆりかごのように揺れて、溶けあい、わたしは静かに眠りに落ちた。


 おばあちゃんはいつもあわただしい。朝早く、まだ日が明けていないような時間から起き出して、日課の散歩をする。三十分ほど歩いてきてから、庭の野菜の手入れをして、朝食を作る。その頃にはおじいちゃんも起き出して、おばあちゃんの手伝いをする。

 わたしが目を覚ますころには、二人は大抵朝食の用意を整えて、わたしのことをじっと待っている。

 先に食べてくれてもいいのにと思うけれど、それは駄目なのだそうだ。できる限り、家族はみんなで一緒にご飯を食べるべきだそうだ。細くて血管の浮き出たおばあちゃんの腕を見ながら、わたしは黙って頭を撫でられた。

 違和感は、確かにあった。それを、わたしは見ないふりをした。あるいは一緒に住んでいるせいで、少しずつ進む変化に、わたしたちは気づかなかった。


 おばあちゃんが、倒れた。顔が真っ青で、呼吸は切れ切れだった。おじいちゃんもまた、おばあちゃんと同じくらい青い顔をして慌てふためいていた。

 小さく肩を揺らしても、倒れたおばあちゃんは返事をしなかった。ややキツイ声音で、けれど諭すようにわたしに色々なことを話してくれたおばあちゃんは、何も答えることはなかった。

 救急車に乗せられたおばあちゃんに付き添って、おじいちゃんは病院へと行ってしまった。子どもは寝る子だとそう言って、おじいちゃんはぴしゃりと扉を閉めた。

 途端に、恐ろしさが足の下からこみ上げた。足下から大地が崩れていくような恐怖が、わたしの心を飲み込んだ。ぽっかりと開いた、色落ちした廊下。その先に続く家は、ひどく寂しげに見えた。

 三人で過ごしてきた家に、わたし一人。狭い階段が軋む音も、炊飯器が湯気を噴き出す音も、パチリという将棋の音も、何一つ聞こえなかった。

 怖くなって、わたしは寝室に走り、星を見上げた。

 星は、変わらずそこにあった。暗闇に慣れてくる視界の中、淡い緑色の星々が、ぼんやりと天井で瞬いていた。

 おばあちゃんが、いなくなっちゃう――激しい恐怖とさみしさから逃れるようにわたしは胸に手を当てて、ぎゅっと拳を握った。

 嫌だ。いなくなってほしくない。お父さんとお母さんみたいに、おばあちゃんまでいなくなるなんて、嫌だ――

 わたしはただ震えながら、視線を彷徨わせた。

 何か、できることはないだろうかと探した。おばあちゃんが死んでしまわないために、わたしにできること――

 視線が、籐の籠を捉えた。その中にあるお手玉のことを、思い出した。

 同時に、保育園が同じ友人の言葉が、耳の奥で響いた。

『流れ星が消える間に三回おいのりすると、ねがいが叶うんだって』

 当時のわたしにとって、「星」とは寝室の天井にある緑の飾りのことだった。比較的都会にあったおじいちゃんたちの家では、見上げるようなきれいな星なんて見えなかったから。

 わたしは小さな足で取り込んでおかれていた布団を踏みしめ、その先でお手玉を握った。

 何度も、何度も、全身を使ってお手玉を放り上げ、星に向かって投げつけた。

 海の音が、狭い部屋に何度も響いた。

 ザザ、ジャラ、ザザ、ジャラ。

 一つ、星が散った。床に落ちていく星へと、わたしは祈りを告げた。

「おばあちゃん、死んじゃわないで――」

 とす、と小さな音を立てて、星は畳に落ちて。わたしは絶望した。祈りは、三回唱えないと願いが叶わない。一回しか祈ることができないうちに、星は落ちてしまった。

 涙で視界がにじむ中、わたしは再び天井に向かって、何度もお手玉を投げつけた。

 一つ、お手玉が星にぶつかるたびに、天井の星が減っていく。

 祈りは、三回に達しない。

 涙があふれて、伝うそれで服が濡れた。

 袖で目元を拭って、わたしは何度も星を落とした。

 お願い、死なないで、おばあちゃん。わたしを、おいていかないで。

 やがて、星はただ一つとなった。無意識のうちに残していた、他の星より一回り大きなそれは、北極星を模したもの。導きの星が、そこにあった。

 あと、一つ。絶望と期待がないまぜになりながら、わたしはお手玉を放った。重い体に鞭打って放ったその一投が、星を散らした。

「死なないで死なないで死なないで――ッ」

 わたしの祈りは、三度続いた。舌がもつれ、後半は心の中での叫びだったかもしれない。

 果たして、大きな星は、わたしの祈りが終わると同時に、畳に突き刺さるようにして落ちた。

 達成感と倦怠感の中、わたしは星屑の海の中で眠りに落ちた。


 それ以来、わたしは誰よりも星を愛し、星に期待するようになった。

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