第9話 星のこし1

 小学一年生の頃、オレのクラスには秀才がいた。

 長谷部陸。頭がよくて、顔もよくて、社交性もある。どこか達観していて、オレたちよりも何歳か年上のようにも思えるあいつは、クラスの中心人物だった。

 誰もが陸に一目置いていた。そしてオレは、それが気に食わなかった。

 あいつは全てを持っていた。オレが欲しい全てを。オレが手に入れられないものを。

 保育園年長の時、母さんが病気で死んだ。オレは苦しくて悲しくて、周囲の人間に当たり散らした。

 周りの人間は、最初はオレを慰めてくれた。

 可哀そう。大丈夫?頑張って。

 けれどそんな言葉は、オレにはひどく心無いもののように聞こえた。足並みを合わせた、外面だけのように響いた。

 友人の中には、心からオレを心配していたやつもいたのかもしれない。けれど、オレには信じられなかった。

 だって、あいつらは知らないから。いきなり母さんが死んだという経験がないから。その苦しみも悲しみも、胸にぽっかりと開いたこの穴も、知らない。

 知らないのに、まるで知っているように言葉を浴びせて来る。オレのこの気持ちが、悲しみが、陳腐で使い古された物語のように扱われているように思えた。

 心無い言葉を掃きつけるやつを無視した、あるいは拳を振るった。

 そうしてもたらされたのは、本当に心なんてないやつの言葉。

『あいつ、ドウジョウされたがってるんだよ。ただのかまってちゃんだろ』

 当時のオレには「同情」の意味はわからなかった。けれど、それがオレを馬鹿にする言葉であることだけはわかった。

 だから、オレはそいつらに殴り掛かった。

 そうしてもたらされたのは、喧嘩両成敗という判決と、オレを問題児だと考える保育士の疲れたようなため息、そして死んだような父さんの視線だった。


 そうしてオレは家族を、友人を失った。日常を失った。

 その全てを、陸は持っていた。

 許せなかった。許すわけにはいかなかった。オレが、その立場にいるはずだったのだと心が叫んでいた。

 ――そんなはずがないのに。

 結局のところ、オレはただ陸に嫉妬していただけだった。ただうらやましかった。そして、後悔していた。

 もしもあの日、オレに差し伸ばされた手を取っていれば。憐憫からかもしれない慰めの言葉を素直に受け取っていれば、もっと違った小学校生活が待っていたんじゃないか。針の筵のような生活じゃなくて、友だちとどうでもいいことでバカ騒ぎできるような、そんな日々があったんじゃないか。そう思って。

 けれどすべては過去のこと。オレは選択を間違え、そうしてもう一度、同じ失敗をしようとしていた。


 教室の窓側前から三番目。

 窓から差し込む陽光に目を細めながら、オレはぼんやりと教室中に響く声を聞いていた。

 昼食が終わった昼の休みの時間。いつもは我先に教室を飛び出していく男子はなぜか、今日はそのほとんどが教室に残っていた。

「よっしゃー!」

 教室の前方で机を囲む男子の一人から歓声が上がる。ガッツポーズをする彼の顔は心から楽し気で、そんな彼に向かって心の中で罵声を浴びせる。

 ――オレをかまってちゃんと呼んだクソ野郎が、と。

 保育園から続く人間関係がオレを縛る。立場が、環境が変わればボッチじゃなくなるという考えは甘かった。

 小学校は保育園の延長線上にある。オレのことを知っている人間が広めた情報は、オレに友だちを作らせなかった。

 腫れ物に触るような扱いには、二か月も経てばもう慣れた。

 梅雨の合間に覗く陽光を浴びながら、オレは男子たちの中心にいる長谷部陸へと視線を向ける。

 女子たちがキャーキャーとうるさいそいつは、確かに顔は整っているような気がする。頭が良くて、テストでは百点ばかり取っているという話で、字もきれい。何より、一年生とは思えない落ち着きがあった。こうしている今だって、陸のやつは男子の輪の中にいるようで、その輪から少し離れたところで皆を客観視するような目をしていた。

 その目に、怒りを覚えた。まるで見下しているように感じられた。幼稚だと、低俗だと、友人をそう見ているように思えてならなかった。

 オレが持っていない友だちをそんな風に見ている陸が嫌いだった。

「……」

 男子たちが一斉に前のめりになり、その両手で机の上にある「コマ」をつかむ。

「レディー、ゴー!」

 一斉に、コマが回る。勢い余った男子の一人が隣のやつに肘をぶつけ、バランスを崩したやつが数歩後じさりする。背後の机の脚に踵をぶつけてうめくも、その視線は自分を突き飛ばした相手ではなく、机の上に注がれている。

 机の上で回るのは、色とりどりなコマ。コマといっても、ベーゴマとか、芯があって紐で巻いて投げるような奴ではない。おもちゃなんて、学校に持ってくれば没収されるだけだ。

 あいつらが遊んでいるのは、牛乳瓶の紙の栓で作ったコマだ。

 作り方は、耳にした限りでは非常に簡単。紙栓の中央辺りを鉛筆でぐりぐりと押して反対側をとがらせ、コマにする。後はとがっていない方に色を塗ることで完成。人によっては、母親からくすねて来たマニキュアを塗ることでキラキラしたラメをつけていたが、まあ色塗りの範疇だ。

 出来上がった紙のコマは両手の人差し指と親指を使ってまわす。うまく中心を尖らせることができれば案外回る。

 そんな栓コマを使った勝負が、このクラス、あるいはこの学年では流行っていた。

 ぶつかり合う紙のコマは、木や鉄のそれとは違って派手な音を立てることはない。けれどそれでも、自分が作ったコマが他のコマとぶつかり、時に机から弾き飛ばし、時にバランスを崩されて止まるそこには小学位一年生ならではのひきこもごものドラマがあった。

 一喜一憂する男子たちの中、冷めているのはオレと――陸だけだった。

 友人たちがコマで勝負する中、陸は一歩引いて彼らを見ていた。まるで、牛乳瓶の栓のコマごときで楽しめるやつらが幼稚だとでも言いたげに。

 ふと、横顔が揺れて、視線がオレの方へと向く。慌てて、窓の外へと目を逸らす。

 カーテンが揺れる。顔にかかる布に驚いて慌ててそれを払う。窓のそとに飛び込んでくるのは、中庭の緑にあふれる景色。もう何年も使われていない田植え用の浅い水場には苔が張り、やや異臭が香って来た。

 歓声が上がる。次の勝者が決まったらしい。

 もう一度、陸の方を見れば、友人たちに引っ張られて戦いに参加させられていた。仕方ないとでも言いたげな微笑に強い苛立ちを覚えたのは、オレがおかしいからではないはずだ。

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