第7話 星さそい3

 駅前の雑踏を歩く。舞い散る雪から守るように少女を抱きしめながら数分ほどかけて向かったのは、大通りの一歩内側、公園の向かいにあるビルだった。吹き抜けのホールの脇にあるエスカレーターを登って三階へ。そこに目的地があった。

 現在開催中の絵画展。なんとなく目にしてきれいだなと思って、けれど行く機会なくずるずると日々を送っていたわたしにとっては渡りに船だった。

 絵画展というと少し首をかしげざるを得ないそれは、正確には飾られているのは版画。無数の色を重ねられた美しい風景画。荒廃した町で、誰もいない屋上で、見上げる美しい星空の絵たち。これが版画かと、わたしは広告にある絵を驚きをもって見ていた。

 受付を済ませ、少し後悔する。予約をしていなかったせいで、特典の品が少なかった。まだ開催期間はあるし、予約特典が欲しければもう一度くればいい。無料なのだから、交通料さえ気にしなければ何度来たっていい。

 わずかに薄暗い展示場へと足を踏み入れる。大ヒットした映画の音楽が耳に飛び込んでくる。あの映画もきれいな画だった。空を切り裂く彗星を思い出しながら、わたいは展示されている作品へと視線を向ける。

 息をのむ音がした。わたしか、あるいは腕の中にいる子か。

 そこには、星空があった。天の川なんて生ぬるい、美しく光り輝く銀河があった。藍色の空に瞬く星々の海。ああ、それは川というよりも海として強く存在を主張していた。

 星の海の中、わたしたちは旅をつづけた。苔むした建物の背後に広がる星空。屋上から見上げる星空。工場の後ろに煙のように立ち上る星の川、海岸沿い、座り込む少女の背後に、海までその軌跡を広げながら輝く星々の流れ。

 そこには、大いなる力の流れがあった。星々の活力が感じられた。

 版画の中には、夕日や不思議な空間を描いたものもあった。巨大なクレーンに影を落とす茜色の世界。魚眼レンズで見たような、あるいはタイマーセットして放置しておいた夜空を見たような、弧を描いた夕暮れの橋を歩く人たち。窓の先に四季がある廃屋。

 不思議で幻想的ではかなくて、けれど力強く何かを主張する絵の森を、わたしと少女は無言で歩いた。一つ一つの作品の前で足を止め、その全体像に息をのみ、細部を眺め、再び全体を見て。

 もう終了の時間に近いからか、ほとんど人がない絵画展の中、わたしたちは流れ出した閉館の音楽に背中を押されるようにして出口付近、数点存在する絵画のほうへと足を向けて。

 その目に、見覚えのある背中が飛び込んできた。知っているようで、知らない背中。

 記憶にあるよりもずいぶん背が伸びていて、精悍な顔つきの「迷子」が、そこにいた。

 滅びた小さな工場の絵。その前に彼は、板垣峻佑は立ち尽くしていた。

 日に焼けた頬を、一筋の涙が伝う。視線の先にある絵の中には、一人の少女の後ろ姿があった。白いワンピースに身を包んだ、顔の見えない少女。その背には、孤独と、拒絶があった。

「……由利」

 思わず、その名を告げていた。私の声に気づいて、板垣くんが顔を向ける。再び、その頬を涙が伝う。思い出したように目元をぬぐった板垣くんが、何とか笑みを浮かべて見せる。けれど、まったく笑えていなかった。その顔にある悲しみが、わからないはずがなかった。

 ここに彼がいる理由は察しがついた。わたしが雪村くんを駅前に連れてきたように、板垣くんも由利を連れてきたのだろう。あるいは、心配になって見に来たか。

 だって、板垣くんはいつだって由利のために動いていたから。まるで妹か、あるいは――

 腕の中で少女が身じろぎした。孤独を映した瞳が、わたしと板垣くんの間で揺れる。ようやく、その光のない瞳にある感情の一つを理解した。それは、悲しみだった。

 ああ、やっぱりこの子の両親はもうこの世界にはいない。

 板垣くんを見る。何も言うことなく、ただじっとわたしを見る彼を、見つめ返す。

 由利はまだ、この世界にいる。けれどもう、彼女は歩き出したのだ。たとえ羽をもがれようとも、体を休めた彼女は、仮宿から飛び出したのだ。衝動にその身を動かして。

 鳥かごから飛び出した蝶はもう帰ってこない。たとえその場所が、どれだけ心地よかったとしても。

「……馬鹿ね、ちゃんと伝えればよかったのに」

 くしゃりと、板垣くんの顔がゆがむ。一言、たった一言告げればよかったのだ。隠してきた、隠し続けてきた本音を。親友なんて言葉で塗り固めて心の奥に押し込んでいた言葉を。

 たとえその言葉が、由利の羽ばたきを止めてしまう呪縛だとしても。

 乾き始めていた頬を再び涙が濡らす。もう、板垣くんは頬をぬぐうことはしなかった。

 せかされるまま、三人、並んで歩き出す。

 一瞬、瞬きの際、瞼の裏にまばゆいほどの星の海が浮かび上がった。その中で、彼は泣いていた。

 気を遣いすぎて後戻りできないところまで自分をだましぬいた板垣くんのゆがんだ笑顔は、どれだけ振り払おうとしてもわたしの中から消えることはなかった。

 無言で来た道を歩き、数分で駅にたどり着く。身をよじらせた少女が地面に降り立ち、板垣くんをじっと見上げる。何か、思うところがあったのだろうか。

 星を見ていた孤独な少女は、そっと板垣くんの足にしがみつき、ズボンに顔をうずめた。

「ばいばい」

 小さく告げた少女は、少しだけその口の端を笑みの形にして、一人改札のほうへと歩いて行った。

「……しゃんとしなさいよ」

「……ああ」

 小さなその背中が雑踏の中に消えて見えなくなってもしばらく、わたしたちはその場に立ち続けた。

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