第6話 星さそい2

 友人は臆病な人だ。その臆病さが、たまにひどく嫌になる。

 堀田真帆わたしは、どちらかというと思ったことをズバズバ言ってしまうタイプだ。心の中で相手を罵倒したり、その人のいないところで陰口をたたいたりするのは趣味じゃない。ああ、別に友人が――友人たちが、そんな悪いことをする人だというわけではない。

 ただ彼女たちは、思ったことを口にすることも、行動に移すこともできない臆病な存在だった。けれど、わたしは彼女たちに、彼女の抱えるものに、踏み込むことができなかった。

 一度彼女が見せた顔に、わたしは声を失った。そこには、わたしの知らない大きな傷を抱えた、手負いの子どもがいた。迷子と、そう呼んでもいいかもしれない途方に暮れた様子で、けれど自分に触れることを拒絶するような彼女を前に、わたしは結局、事情に踏み込むことができなかった。

 彼女――由利は、傷つき、けれどその傷を他者に見せることを嫌った。自分を汚いと、あるいは異常であると感じて、人と距離をとる。けがれた自分をみせたくなくて、大切な人とこそ距離をとる。わたしの友人は、そんな女の子だった。

 彼女の人生を、経験を、その詳細をわたしは知らない。知ったところで、どうにかなるとも思っていない。ただ、彼女は時折わたしの知らない顔をした。絶望とも、失望とも違う、ただすべてを飲み込み、あきらめたような無の顔。そんな顔をした友人が嫌いで、友人にそんな顔をさせてしまう自分が、わたしは嫌いだった。

 自らの領域に踏み込まれることを嫌う由利に、わたしは何をしてあげることもできなかった。ただ微妙な距離をとって、彼女の心労にならないほど良い友人関係を続けた。それが、わたしと由利のすべてだった。

 けれど、他者を拒絶する由利が、わずかに受け入れた存在がいた。それが、雪村俊介で、板垣峻佑だった。どちらもシュンスケという名前だったのは偶然なのか、必然だったのか。

 雪村くんはたぶん、由利にとって大切な人だった。はたから見ていても、由利が彼に思いを寄せているのがわかった。けれど由利は、雪村くんに一歩を踏み込ませなかった。自分が抱えるものを、自分の傷を、見せようとしなかった。

 でも、雪村くんもたぶん、由利が好きだった。確信はないし、他の友人が話していたことをまた聞きした程度だから、正確にはわからない。わたしはあまり雪村くんと話したこともないし、雪村くんと由利の関係も知らなかった。けれどもし二人が両想いだったのだとすれば、じれったくて仕方がないと思ったし、板垣君との関係を匂わす由利には怒りも覚えた。

 板垣くんは……正直、由利にとってどのような存在だったのか、わたしはよく知らない。ただ、二人はよく一緒にいた。そして、由利は板垣くんに自分の懐に踏み込むのを許しているように見えた。二人の間に距離はなく、すべてを分かち合っているように見えた。板垣くんは、由利に重いものを打ち明けられても、「親友」だと公言して支えることができるような懐の広い人だった。

 板垣くんのおかげか、由利は少しずつ元気を取り戻していった。傷を癒していった。けれど、時間が経てば経つほどに、雪村くんと由利の距離は広がっていった。

 このころになると、わたしはもう、由利は板垣くんと付き合っていると思っていた。だって、休みの日にはたいてい板垣くんの家に遊びに行っているというのだ。これが付き合っていない男女だと、本気で言っていたのだろうか。それはもう、家族公認の関係だろう。

 そんなわたしの邪推はともかく、わたしはただ、高校生になっても大学生になっても、時々由利と会って話をする程度の距離感を保っていた。

 最新の注意を払って、わたしは由利との友人関係を続けていた。ただ、それだけだった。そのはずだった。

『真帆、お願いがあるの』

 大学三年生の冬、わたしはおそらくは初めて、由利から頼みごとをされた。雪村くんをある場所へ向かうように誘導してほしい、そんなお願いだった。

 そこで初めて、彼女は自らの傷について話し始めた。それはもう傷ではなく、確かに癒えた傷跡になっていたから。

 語られるその内容は、わたしの息をのませるものだった。

 狂った家庭環境がもたらした彼女の痛みは、わたしには想像することも難しかった。けれどそれがひどく痛くて、ひどく苦しくて、他者には決して見せたくないものだということを、わたしは何となく理解した。

 そして、そんな苦痛の中にいた友人に手を差し伸べることができなかった自分が嫌になった。

 贖罪、というと少し違うのかもしれない。

 わたしは、彼女が初めて見せた救援要請を受け入れた。雪村くんを駅前のイルミネーションに連れていく――そのための話術を、話の構成を考えた。その際、雪村くんが自分と同じ大学に通っていることを知って驚いたりもしたが、それはともかく。

 わたしは無事に雪村くんに興味を持たせることに成功した。けれど確実とは言えない。

 わたしは与えられた役割を遂行するべく、雪村くんの後を追った。

 駅前。乗り換えの駅に向かいかけた雪村くんはふと足を止め、改札の出口に向かった。わたしの、誘導通りに。

 去っていく彼の背中は、イルミネーションの暖かな橙色の光の中に消えて行って、わたしはホッと息を吐いた。

 これで、わたしの役目は終わりだ――そんな充足感の中、わたしは外へと一歩を踏み出し、近くの壁に背中を預けて行きかう人たちをぼんやりと眺めた。

「何してるんだろう、わたし……」

 途端に、虚しさがこみ上げた。他人の恋愛に手を出せるほど、わたしは恋愛強者じゃない。クリスマスイブにもかかわらず、というか生まれてこの方恋人がいたことのない人間が何をしているんだろうと、そんな思いがずっしりと肩にのしかかった。

 来年は就活で忙殺されるだろう。でも、わたしは大学三年生のこの段階になってまだ、進路が全く見えていなかった。

 何になりたいのか、どう生きたいのか、何を仕事にしたいのか、何もわからなかった。

 これまでわたしの前にはずっと道があった。進学という、大多数が選ぶ道が。そのレールを、わたしは何を考えることもなく歩き続けた。

 だからまあ、このまま大学院に進学してもいいかな、なんて。そんな甘ったれたことを考えながらぼんやりと試験勉強をしているくらいだった。

 歩む先は暗闇に閉ざされていて、道なき道を前にわたしは恐怖していた。

 わたしは、どうしてこんなところにいるんだろう?孤独が、わたしの心にしみこんでいく。

 漏らした吐息は、温かみのある光に照らされて淡い橙色を帯びていた。空に昇るその息を何となく見上げていた。

 視界に、白が映る。舞い落ちる雪を見て、わたしはもう一度大きく息を吐いた。

 イルミネーションの光に照らされながらひらりひらりと雪が降る。幻想的なその光景の中、夫婦、あるいは恋人たちが歩いていく。

 わたしは一人、ぽかんと口を開いたまま空を見上げていた。そのことに気づいて、わたしは恥ずかしさからマフラーをたくし上げ、存在感を消すように身を縮こませて。

 ふと、視界にわたしと同じように頭上を見る人影を見た。一心不乱に空を見上げるその影は、わたしよりもだいぶ――いや、視界に移る誰よりも小さかった。

 雑踏の中、時折わたしの視界に移るのは、まだ三歳かそこらの、小さな女の子だった。真っ黒なワンピースに身を包んだ少女。

 行きかう者は彼女に目を留めない。彼女の周りには、保護者と思われる者もいない。

 何となく、わたしは一歩を踏み出していた。

 それはたぶん、彼女の背中に、友人に似たものを感じていたからだと思う。

 近づいて、その横顔を斜め上から見て確信した。彼女は、由利と同じものを抱えていた。

 究極の、孤独を。

「……ねぇ、一人なの?」

 わたしの声に、少女は返事をしない。その目はただじっと空を見上げていた。その視線を、何とはなしに追って、気づく。彼女が見上げていたのは、空ではなく、その下で美しく輝く大きな星だった。

 駅前のロータリー、その中央。広がる木の枝に電灯が巻き付けられ、その頂上で美しい星が存在を主張していた。

 星の飾りに子どもが熱中している――それだけなら、わたしは何も思わずその場を去ったと思う。その少女の目には、確かに熱があった。けれどその熱は、感心や歓喜という言葉は生ぬるい、どこか狂気じみたものだった。

「……両親はどこ?」

 瞬間、わたしは言葉を間違えたことを悟った。それまで熱に浮かされたように一心不乱に星の飾りを見ていた少女が、勢いよくわたしを見た。その目には、何の光もなかった。ただ虚無が広がっていた。それは、拒絶の光とも、救いを求める視線とも、諦めにハイライトが消えた目とも取れた。

 その目を知っていた。わたしの友人、由利と同じ目だった。かつてわたしが失言した時、由利の両親について言及したとき、彼女は似たような反応を示した。これほど明らかなものではなかったけれど。

「……いない」

 ぽつりとつぶやかれたその声は、雑踏にかき消されてしまいそうなほど小さくはかないものだった。

 少女は再び空を見上げた。その目は、星を見ているようで、けれど何も見ていないようにも見えた。

 なんとなくしゃがんで、彼女と同じ目の高さになった。彼女が見ているものを、景色を、自分も見たいと思った。

 名も知らぬ少女と並んで、わたしは、わたしたちは煌々と輝く人工の星を見続けた。

 くしゅん、と少女が小さくくしゃみをする。その頬は赤く、同時にとても冷たそうだった。思わず触れた小さな手は氷のように冷たかった。

『――いない』

 囁き声が、再び頭をよぎる。いない。両親が、いない。この場にいないということでは、たぶんない。きっとこの子の両親はこの世界のどこにもいないと、そんな確信があった。

 けれど、この子の保護者はいるはずだ。近くにいるかどうか、その人が、この子が心を寄せるに足る良識のある大人であるかどうかはわからないけれど、ここで一人寒さに身を震わせておくよりはましだと思った。

「……帰らないの?」

 何も言わない。反応もしない。ただ、小さな呼吸に合わせて口から吐き出された真っ白な息が、空に昇って解けていく。

「星が、好きなの?」

「……好き」

 今度は反応があった。視線は向かないけれど、少しだけ彼女がわたしに反応した。もう一度、視線を巡らせる。この子の保護者らしき人はいない。

「……寒くない?」

「だいじょーぶ」

「そっか。わたしは寒いかな。ねぇ、風の届かないところに移動しない?」

 やっぱり、返事はない。こんな小さな女の子から目を離す保護者も、このまま見ないふりをして離れるのもだめだ。

 別に、わたしは正義感が強いほうじゃない。ただ、たぶん、わたしは目の前の少女に手を貸すことで、由利を助けてあげられなかったという心残りを解消しようとしているのだと思う。

 どうするかと考える。このまま寒空の下でじっとしていては風を引いてしまう。このままここにいて保護者が来る確証もない。迷子センターに向かうか、せめて温かいところに移動すべきだけれど、この子は星の前から動きそうにない。

 星……星、ね。

「ねぇ、もっときれいな星を見に行かない?」

 なんだか甘言を囁く誘拐犯にでもなった気分だ。実際、保護者でもないわたしがこの子を連れて行こうとするのは、場合によっては犯罪ととられかねないと思う。けれど、このままここでこの子を放っておいて、肺炎にでもなって死なれてしまうのは嫌だ。

「きれいな、ほし?……みえないよ」

 ああ、その通りだ。今日は雪が降っていて、空には星一つない。視界にあるのは、大きな一つの星飾りだけ。寒空の下、ただ孤独に輝くその星は、今見るとひどく寂しげに映った。先ほどまで、温かな光だと思っていたのに。

「もっときれいで、たくさんの星よ。どう?興味が出てきたんじゃない?」

 少女が小さく目を瞬かせる。その目には、確かな関心があった。わずかに持ち上がった手は、ためらうように降りていく。

 その手を取って、少女を抱き上げる。

「よし、行こうか」

 腕の中から逃げ出そうとはしなかった。ただ名残惜しそうに星のイルミネーションを一瞥してから、その目をわたしに向けた。わたしの中の何かを見通すような、澄んだ瞳。

 ああ、まったく。そんなところまで由利と一緒だ。

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