第5話 星さそい1

 星はただ、そこにある。空に、町に、人の心の中に。

 思い出の中で輝く星はきっと、誰かを照らす光になる。


 わたしは一人だった。わたしは、孤独だった。

 当時のわたしは間違いなく「孤独」なんて単語もその意味も、そもそも自分の感情をなんと表したらいいのかもわからなかった。三歳児にそんなことを求められても困る。

 けれど、わたしは孤独だった。

 渇いていた。願っていた。望んでいた。

 けれどそれは、決して叶わぬ祈りだった。叶わないと、幼いながらに理解もしていた。

 それでも、わたしは祈った。願った。求めた。渇望した。

 わたしは、奇跡を求めた。もし自分の願いが叶うならば、それは神仏に等しい強大な存在によってのみ実現する、かもしれないと思っていた。

 わたしは、星に願った。神とか、そんな超常の存在を理解していなかったわたしにとって、星は遠く、けれど確かにそこにある不思議な存在だった。

 夜のとばりが落ちた海辺にて。無数に輝く星に願った。

 けれど、願いは叶わなかった。祈りは届かなかった。

 それでも、わたしはずっと、奇跡を望んでいた。故郷を後にしても、その在り方が変わることはなかった。

 だからだろうか、わたしはより一層、新しい環境になじめない日々を送っていた。

 海のそばに広がる町から、都会に移り住んで。そこには、初めてのことが多すぎた。

 大きな環境の変化に、何よりも心に空いた空虚に、わたしは耐えられなかった。

 いつだって、お父さんとお母さんの姿を探していた。いなくなってしまった二人にきっと会えるだなんて、そんなおかしな確信を胸に、二人の影を追い求めた。

 けれどいつだって、見慣れない家で姿を見かけるのはおじいちゃんとおばあちゃんだけだった。

 そのたびに落胆して、そうして二人に誰を探していたのか気づかれて苦しそうな顔をさせていた。

 わたしはひどい子どもだった。息子を亡くした二人だってつらかっただろうに、それをおくびに出すこともしなかった。

 そんな真綿で包むような生活が、苦痛だった。


 わたしは、保育園にもなじめなかった。

 「死」を知ってしまったわたしは、保育園年少クラスの特大の異物だった。

 なんの苦しみも知らないような子どもたちの中、わたしは暗鬱とした空気を放っていた。あるいは、ただ無だったかもしれない。

 慣れないわたしを、保育園の先生は必死になってみんなの輪に入れてくれようとした。けれど、駄目だった。わたしは、みんなと一緒に走り回る生活に耐えられなかった。

 同級生の元気な声を遠くにして、わたしは無性に、海の音が聞きたかった。あの懐かしい、耳の奥に残った音を聞いて、お父さんとお母さんとともに砂浜に寝転んで太陽の日差しを浴びていたかった。

 けれどそれがもう叶わないことであるということだけ理解していて。

 静かに涙を流すわたしを前に、ただ先生たちは右往左往するばかりだった。


 静かに、息をひそめるように時間が過ぎた。

 夏が少しずつ主張を強くしていく。故郷とは違う暑さがわたしを襲った。照り付ける太陽はアスファルトをこれでもかと熱して、わたしを上から下から攻撃した。おばあちゃんに渡された麦わら帽子をかぶって、わたしは苦痛な保育園への道を歩いた。

 都会は緑が少なかった。林も森も見渡す限り存在しなくて、ただ人工物ばかりが視界を埋め尽くしていた。セミが泣き叫ぶ灰色の町を、わたしはおじいちゃんに抱き上げられて進んだ。

 秋が来て、少しだけ涼しくなった。この頃には多少わたしも新しい環境に慣れ始めて、わずかに余裕が生まれていた。それでも残暑は厳しくて、わたしは保育園の建物の中でほとんどずっと絵本を読んでいた。星の絵がある作品ばかりだった。赤や黄色、緑といった色鮮やかな星たちがそこにあった。手を伸ばせば、星に触れることはできた。けれどどうやっても星を捕まえることはできなくて、わたしは無性に悲しくなった。星をつかみたい。けれどつかめない。

 なぜか泣けてきて、わたしは激情のままに本を捨てた。

 冬が来ても、わたしは一人だった。おじいちゃんとおばあちゃんは過保護で、食事の好き嫌い以外では基本的に声を荒らげることもなかった。ただ、二人はわたしの友人になるには関係が近すぎて、さらには年齢が離れすぎていた。

 だから、わたしは一人、ちらちらと舞う雪を眺めながら灰色の空を見上げていた。それは、幼いわたしの目には牢獄のように見えた。周囲に立ち並ぶ建物と同じ、灰色の建造物群。それから、逃げたかった。けれど、幼いわたしには逃げる手段なんて思い浮かぶことはなかった。

 そんな時だった。おじいちゃんがわたしに、お父さんとお母さんのお墓参りに行かないかと誘ったのは。

 故郷の町。そこに眠る二人のもとへと、わたしは旅に出た。


 冷たい、石を前に、わたしはただじっとしていた。

 見つめる御影石には、父と母の、そしてわたしの苗字が刻まれていた、らしい。

 大垣。両親が残した、わずかなつながり。それを前に、わたしはただ立ち尽くすしかできなかった。

 墓参りの意味すら、わたしはわかっていなかった。ただ、亡くなってしまった両親に会いに行くと、そういわれて。わたしは心のどこかで奇跡の時がやってきたことを予感していた。

 だからこそ、無機質な石を前に、わたしはどうしたらいいのかわからなくなっていた。

 冷たい風が吹いていた。木々は葉を落とし、枝の先に一つだけ残った枯れ葉が北風を浴びてカサカサと揺れていた。

 照りつける太陽は力なく、にぎやかな虫たちの声も聞こえない。

 無数にそびえる御影石の森の中、わたしは祖父とともに立ち尽くしていた。

 12月24日、両親が死んだ、およそ半年後。

 月命日のその日、そうしてわたしは、生まれた土地へと帰ってきていた。


 その町は、おじいちゃんとおばあちゃんの故郷でもあるという。そんな町から二人が離れた理由は、知らない。けれど二人とは違い、両親はこの町に残り続けた。

 そこに何があったのか、わたしは知らない。けれどその話をすると、決まっておじいちゃんはつらそうな顔をした。

 それは、わたしと同じ、死を思う顔だった。

 おじいちゃんに抱かれて、わたしは見知らぬ町を進んだ。故郷は、わたしを温かく迎えることはなかった。

 冬のその日、訪れた故郷はわたしの知らない世界だった。たった半年離れていただけで、わたしの中からはすでに故郷の記憶は消えつつあった。

 心から帰郷を求めていたはずだった。両親の記憶が残る町に帰りたいと、そう思っていたはずだった。

 けれど故郷は、わたしを来訪者として迎え入れた。

 そこはもう、わたしにとっての故郷ではなくなっていた。

 おじいちゃんの腕の中で見渡す町は、わたしの知らない町だった。

 保育園に行くために通った道も、友人の家も、お母さんと一緒に行ったスーパーも、すべてがわたしを異分子としているように思えた。それはまるで、町が、そこにある建物が、物理的に迫ってくるようで。そんな圧迫感、あるいは閉塞感をわたしに与えた。

 恐怖に心震わせるわたしが泣き出さずにいられたのは、背中に添えられたおじいちゃんの手のぬくもりがあったからだった。しわがあるかたい手。お父さんともお母さんとも違うその手は、けれど確かに、わたしを受け入れてくれていた。灰色の、色あせて見える故郷の町並みとは違って。

 車がわたしたちの横を通り過ぎた。冷気が背中に吹き付ける。いつの間にか世界は薄暗くなっていて、そこをまばゆい光が走り抜けていく。

 見上げた空は絵の具を塗りたくったような重い灰色をしていた。そこから、はらりと雪が舞い落ちる。

 雪の降る世界、わたしは一層強くなった寒気に体を震わせ、おじいちゃんの手に小さな手を添えて、まっすぐ前を見据えた。

 通り過ぎていく車の光は、温かみのない人工の光。太陽の光とは違う、無機質で、冷たい光。それは、御影石が反射した陽光にも似ていた。

 冷たくて、わたしのことなんてまるで気にしてないような光。

 そんな光がひどく怖かった。

 わたしの恐怖に、おじいちゃんはたぶん気づいていなかった。

 一緒に進みながらも、わたしはひどく孤独だった。

 お父さんとお母さんが生まれ育ち、死んでしまった町。

 そこでわたしは、確かに孤独を感じていた。

 だからその日、旅の疲れて眠ってしまったおじいちゃんを一人宿に残して、わたしは町に飛び出した。

 何かを探していた。それは、亡くなったお父さんでもお母さんでもなかったと思う。

 わたしはただ、わたしの心の穴を埋めてくれる何かを探していた。

 わたしを孤独から解放してくれる何かを渇望して、一人世界を歩いた。

 そうしてわたしは、それと出会った。

 それはあるいは必然だったかもしれない。

 わたしはただ、それの存在を望んでいた。それはわたしにとって、たった一つ、祈るべき存在だったから。

 その日、わたしは闇夜を照らす、強くまばゆい一つの星を見た。

 それは美しく、荘厳で、そしてあたたかな光だった。

 そうして、その光の星が照らす広場で、わたしは一人の女性と出会った。

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