第4話 星うたい

 海が、泣いていた。

 嵐が吹きすさんでいるというわけでもない。ただ曇天に覆われて今にもぐずつきそうな空の下、冷たい風に揺れる白波は、確かに泣いていた。

 湿り気を帯びた風は、彼女の声を届けようと必死に走る。

 海鳥が、彼女の意をくもうと、大きく翼をはためかせる。

 潮騒が泣いている。歌っている。声を届けようと、必死に波立つ。


 海の中、一人の女がいた。

 体は世界に溶けてしまっていて、彼女を見つける者はいない。

 泳ぐ魚が、海鳥が、貝が、海藻が、彼女をじっと見つめていた。

 海に消え、海にとらわれ、それでも彼女は現世を旅立つこともできず、そこに揺蕩っていた。

 まだ日が出ているのか、揺れる海面は淡くきらめき、星空のような輝きを彼女の目に届ける。わずかに目じりを下げた彼女が、手を伸ばす。水面を、指先が突き抜ける。

 そこにある光を揺らめかせることさえも、今の彼女にはできない。

 落胆に目を閉じ、意識を広げる。

 海は、今となっては彼女の体でもある。そこには、海にとらわれたたくさんの者が眠っていて、その中には生前の思いにとらわれて狂った者や、心を摩耗させて何も反応をしない抜け殻になり果てた者もいる。

 海に囚われた彼女たちの末路は、狂うか擦り切れるか、その二択。

 それでも、彼女は構わずに世界を見回す。海辺で泣き続ける男を思えって、声を届かせようと魂を震わせる。

 愛しい人が、そこにいるのだ。自分を思って、泣いているのだ。

 砂浜に座り込み、動くこともできずに、ただじっと海を見て泣き続ける彼。彼に、笑顔を取り戻したかった。一度だけでも、彼にお別れを言いたかった。

 もう、自分のせいで苦しまなくていい、そう思いたかった。

 その顔に笑顔を取り戻せるのなら、私の記憶をすべてなくしてくれたって言い――それは少し言い過ぎたかもしれない、と女性は胸に手を当てる。

 そこにはまだ、たくさんの思い出が詰まっている。愛おしい日々の記憶が、確かに胸の中にある。けれど、少しずつ、生を謳歌する者に比べれば、大変ゆっくりと、記憶は薄れていく。存在の格となる記憶は、いつか摩耗してなくなってしまう。

 自分が、少しずつ壊れていく。それに恐怖することはない。恐怖という感情は、死とともに置いてきた。

 だから彼女は、ただ想い続ける。ただ、叫び続ける。

 海に座り込む男へと、声を届かせようとする。

 涙は枯れない。自分を想って泣いてくれている――そのことが、ちょっぴりいとおしくて。

 けれどそんなんじゃだめだと、己を律する。

 願い、祈り、歌う。

 この声よ届と、神に祈りながら。

 やがて夜になる。死者の時間がやってくる。

 海の束縛が少しだけ緩んだ世界で、彼女は海面を突き破って空へと飛び出す。

 曇天の下、月明かりの一つもない海はのっぺりとした黒さをしていた。まるで、黒の絵の具を塗りたくったよう。

 そんな亡者の世界から顔を出した彼女は、海岸へと飛ぶ。

 男は、もうそこにはいなかった。わかっていた。彼女の母が、男を連れて行ってくれた。けれど、もう少し、もう少し近くで彼を見ていたかったと、女は心の涙を流す。

 海が鳴く。ザザァと、潮騒が響く。寂しげな音に合わせて、女は歌う。

 その歌が届く日はいつになるのか、届くことがあるのか。

 何もわからず、死者はただ、生者を想って祈り続ける。


 どうか、笑っていて。どうか、幸せでいて。

 それは、はかなくも尊い愛のうた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る