第3話 星すくい2

 夏の一日。僕は一年でその日だけは、仕事を休んで故郷に向かった。彼女の実家で線香をあげ、彼女の姿を探して海岸をさまよい歩く。

 その目は、遥か遠くに続く海の、その水平線の先を見ていた。いつか、彼女が沖から帰って来るのではないか。そう思いながら、僕は嵐の日も、日差しが厳しい暑い日も、彼女がいなくなったその日だけは、心に広がる絶望と空虚感を押し殺して、彼女の姿を探し続けた。

 でも、見つからない。見つかるはずがなかった。彼女はもう、帰らぬ人となったのだ。

 それを受け入れることすら、僕にはまだできなかった。


「もう、十分だよ。あの子は幸せだった。あなたに愛されて、本当に幸せだったよ。だから、もうこれ以上、亡くなったあの子のせいで苦しむのはやめてくれ。あの子は、あなたがこのまま絶望の中で生きることを望んでなんかいないはずよ」

 そう言われたのは、彼女が死んで三年目のことだった。苦しそうにはきだされたその言葉を聞いて、僕は激しい怒りに襲われた。

 何を言っているのか、最初はわからなかった。

 続いて、激しい耳鳴りがした。次第にその音は、嵐の日の海の鳴き声のように、荒々しいものへと変わっていった。

「彼女は、まだ、死んでいない」

 そう、彼女は死んでいないのだ。僕はまだ、彼女が死んだとは思っていなかった。いつか彼女は、水平線の向こうからやって来る。その、はずだった。だから僕は、こうして、辛い記憶を呼び覚ますだけの故郷に、帰ってくるのだ。

 彼女が死んだとは限らない。死体は見つかっていない。それに、少なくとも僕の心の中では、確かに彼女は生きていた。

 ――本当は、わかっていた。彼女は、もうこの世界にいないと。けれど、それを真正面から受け止められるほど、僕は心が強くなかった。

 可哀そうな人を見るような彼女の母を、僕はただにらむことしかできなかった。


 黒い傘を片手に、彼女の家を飛び出した。

 雨が降っていても構わなかった。その音が、少しだけ僕の心を絶望から救ってくれた。

 代わりに、孤独感が強まった。傘に打ち付ける雨の音が、世界の音を消していく。雨に煙る灰色の世界に、僕は一人。

 誰にも理解されない、狂った一人の男がそこにいた。

 あぁ、確か彼女が死んで一年目のあの日も雨が降っていた。あの時は嵐が来ていて、外は出られたものではなくて、僕は傘もささずにずぶぬれになりながら海をにらみ続けた。

 あの日に比べれば、この程度の雨はどうってことない。

 僕の足は、自然と海の方へと向かっていた。

 降りしきる雨の中、黒ずくめの恰好の僕は薄暗い世界に紛れて海岸沿いを歩き続ける。

 水面に暗い影をたたえる海は、押し寄せては引き、白い泡で荒れ狂っていた。

 その白波は、まるで怒りを表現しているようだった。

 あるいは、泣いているようだった。見つけてもらえない悲しみを叫んでいるようだった。

 涙で、目がにじんだ。彼女は今も海の中に沈んでいるのだと思うと、悲しくて仕方がなかった。

 さみしくはないだろうか。寒くはないだろうか。

 僕は寂しい。悲しい。つらい。苦しい。それに寒い。暑いはずなのに、寒くて仕方がないんだ。

 ねぇ、僕の名前を呼んでよ。僕の声を呼んでよ。会いに来てよ。ねぇ、君はどこにいるの?会いたいよ。会いたいんだ――

 一人暗い海の底で眠っている彼女を思って、僕は泣いた。


 気づけば、夜になっていて。道脇に並ぶ明かりだけが、ただぼんやりと世界を映し出していた。真っ黒な海は、のっぺりとした顔でそこに存在し続けていた。

 静かに、潮が引いては満ちていた。

 ふと、暗闇の中、かすかな明かりに照らし出されるように白い小さな影を見て、僕は砂浜へと走った。

 彼女が、帰って来たと思った。幽霊のような姿をしたその人物が、僕に会いに来た彼女だと、そう思って。

 けれど近づくほどに、彼女とは全く異なる人物であることが分かった。

 小さな、少女。真っ白なワンピースを着た彼女は、裸足で水際に座り、ぼんやりと空を眺めていた。

 僕もまた、空を見上げる。気づけば雨は上がっていて、雲の切れ間から星がのぞいていた。明かりの少ないここでは、やけにはっきりと星が見えた。

 いや、多分町のどこでもここと変わらないくらい星が見えただろう。ただ、雲の切れ間から覗く星の海に、僕が久しく目を向けていなかっただけだった。

 遠く離れた都会では、星なんてほとんど見えやしない。その前だってそう。彼女が死んでから、僕が空を見上げたことなんて、憂鬱な雨空を睨んだくらいだった。

 閉じ時を失った傘を差したまま、僕は少女を見ながら砂を踏みしめた。

 まだ三歳かそこらの、小さな少女。周りには彼女の保護者らしき人影はいなかった。幽霊のように星明りの中にいる少女のもとへと向かったのは、彼女の死の記憶があったから。

 子どもを助けるために海に消えた彼女。助けに向かった子どもは、彼女のお陰で九死に一生を得たという。だからもし、少女が大波に飲まれて海に引きずり込まれたら、僕が少女を助けに向かって、彼女の下へと向かおうと思った。

 波打ち際の少女は、動かない。その少女の視線を閉ざすように、僕は彼女の視界を傘で覆った。

「何をしているんだ?」

 小さく目を瞬かせた少女は、わずかに小首を傾げる。その顔に、彼女の面影を見た気がした。

「……おとーさんと、おかーさん」

 小さな、丸みを帯びた指が傘――の先にある雲の切れ間を指す。

「はなちゃんが、いってたの。おそらに、おかあさんはいるんだって。でも、いないの」

 その顔に見たのは、彼女の面影ではなかった。鏡の中の僕の顔に張り付いた、孤独の気配がそこにあった。

 少女を見守る人は、いない。一人海岸沿いにいる少女の両親は、彼女の言動が正しければ遥か遠く、空の上にいるのだ。

 空の上に、彼女もいるのだろうか。波にさらわれた彼女は、空に昇ることができたのだろうか。

 傘をずらして、空を見上げる。点在する雲の切れ間から覗く星々の中に彼女の星があるとは、僕には思えなかった。

「亡くなった人は空に昇ってみんなを見守っている、っていう言い伝えがあるんだよ」

「おそらに、のぼる?とべるの?」

「うーん、とぶんじゃなくて、そうだね、お星さまになるんだよ」

 よくわからないと言った顔で、少女が首を傾げる。きゅっと眉間にしわを寄せる少女は、すぐに再び空を睨む。指さしていたその手を開いて、握るように虚空をつかむ。

「おほしさまつかまえたら、おかーさんとおとーさん、あいにくる?」

「どう、だろうね。星を捕まえられるような奇跡が起こったら、君に会いに来てくれるかもしれないね」

 もし、彼女が生きていて、女の子が、生まれていたとしたら。このくらいの年齢の、彼女に似た可愛らしい子だったんじゃないだろうかと、そう思った。だから、少しだけ、絶望と孤独に沈んだ心を闇から引きずり上げて、彼女に答えた。

 何度も、何度も、少女が星を捕まえようとその手を伸ばす。小さな手で、必死になって。

 死を知らず、両親との永遠の別れだって十分には理解していないだろう少女のその姿は、ひどく痛々しく僕の目に映った。

「おいで。協力してあげる」

 そう言って、僕は少女を抱き上げて海に進んだ。革靴が海水に浸るのも、ズボンが濡れるのも、気にはならなかった。きょとんとした様子の少女を抱えながら、僕は海を進む。

 差し出した傘を、少女は両手で握る。けれど成人男性用のそれは、少女の手には重すぎてすぐに海へと落ちていく。少女の手を支え、海を掬う。

「ほら、見て」

 真っ黒な傘は、海の水を少しだけ掬う。引いては押し寄せる海水から隔離された水面は静かに揺蕩い、その表面に星々を映し出す。

 わぁ、と少女が静かに歓声を上げる。身もだえする少女を落とさないように気を付けながらしゃがめば、少女は伸ばしたその手で、水面の星をつかもうと足掻く。

 どれだけそうやっても、星は少女の手の中に収まらない。けれど手を握ることで星が消え、少女はそれを、つかんだと考えたようだった。

「おとーさんと、おかーさん、あえるかな?」

「会えるといいね。……君は、これからどうするの?」

 何度も何度も星をつかもうとしている少女を見ながら、僕は尋ねた。動きを止めた少女が顔を上げる。漆黒の瞳には、もう孤独の光はなかった。

「うーんとね、おひさまがのぼったら、おじーちゃんがくるんだって」

「……そうか。いい人だといいね」

「わかんないの。おじーちゃんって、だぁれ?」

「会ったことないのか。そうだね、君のお父さんの、お父さんのことだよ」

「おとーさんの、おとーさん」

 ちらりと、少女が空を見上げる。その先に、手を伸ばす。

 僕もできるだけ少女の手が少しでも空に近づくように、膝を伸ばす。

 やっぱりその手が星をつかむことはなく、けれど少女は、どこか満足いったようにうなずいた。

「……あ」

 ふと、少女が小さな声を上げる。視線の先、僕たちの手から離れた傘が、奇跡的なバランスを持って、星を掬ったまま、静かに海の向こうへと引き寄せられていった。

 まるで、誰かに運んでいるように。

 その、傘が揺蕩う先。雲から覗いた月に照らされた海の光が、一瞬、彼女の姿をとった気がした。こちらに半身を振り返って、舌を覗かせてからかうように笑う彼女が、いた気がした。

「どうか、風花ふうかに届きますように」

 空にいるのか、海の中にいるのか。行方もしれない彼女にひと掬いの星空が届くように願いながら、僕たちはじっと傘の行方を追い続けた。

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