第2話 星すくい1

 彼女は元々、体が弱いひとではあった。

 季節の変わり目には必ずと言っていいほど体調を崩したし、激しい運動をすれば次の日は布団の中の人となった。

 それでも、彼女は必死に生きていた。弱い体を抱えながら、凛と背を伸ばしてまっすぐに生きていた。

 特に挫折することはあった。一人、膝を抱えて涙を流しているところを見た。それでも立ち上がり、その苦悩をすっかり覆い隠して気丈に笑って見せた。

 そんな彼女から、目が離せなかった。


 同じ町で生まれ育ち、同じ学校に通い、時には離れることもあったけれど、気づけばよく話をしていた。そうして、幼い頃からの友情は強固な信頼感となり、恋を飛び越えて愛へと至った。

 彼女を、愛していた。彼女の隣にいるだけで、幸せだった。彼女も、僕の隣にいるだけで幸せだと言ってくれた。

 互いに互いを支えあい、足りないところを補い合いながら、僕たちは二人で生きて来た。

 彼女が隣で笑っているのを見るだけで、頑張ろうと思えた。彼女のためと考えれば、辛いことも苦にはならなかった。

 仕事から帰れば彼女がいる。お帰り、とどこかくすぐったそうに告げる彼女を前にして。

 僕はいつだって言葉にすることもできない感動に震え、それを示すように彼女をそっと抱きしめて「ただいま」と告げた。

 腕の中、恥ずかしそうに身をよじる彼女のぬくもりは、今もこの手の中に残っている。

 僕たちの生活にはいつだって彼女がいて。

 いつしか、それが当たり前になっていた。


 家を前にすれば、小さなピアノの音が聞こえた。彼女の実家。ここには狭い家には置けないアップライトピアノが置いてあって、それを使って彼女はピアノ教室を営んでいた。

 音楽大学を出て、教職免許を取りはしたけれど教師になることはなく、彼女はここで仕事をしていた。学校の先生とやっていくにはこの体は弱すぎる――漏らした弱音を抱えるように、そっと彼女を胸に包み込んだ。

 僕の胸の中、すすり泣く彼女の声を覚えている。

 響くピアノの曲は時折止まっては、思い出したように再び進み始める。指がもつれるように止まる。練習中の子どものもの。

 その子をサポートするように、短く彼女の指が音を奏でる。あの、ほっそりとした白い指が鍵盤の上を踊っている姿を想像する。

 なぜだかそれは、ひどく淫靡な光景に見えた。

 黒鍵が沈む。白鍵が次々と沈んでは起き上がる。それは挫折を繰り返した彼女の人生にも似ていた。

 たくさん、あきらめたことがあった。体の弱さが理由で、袖を濡らした日々があった。

 けれどそのピアノはどこまでものびやかで、そこには何の後悔も含まれてはいなかった。

 ピアノ教室の邪魔をしないように、インターホンは鳴らさずに鉄門を開く。庭の中を抜ける道を進む。

 みずみずしい葉を広げ、実をつける家庭菜園の野菜たち。それを横目に、僕は玄関へとたどり着く。

 鍵を開きながら、彼女のことを考える。

 話したいことがあると、覚悟を胸に告げた彼女。彼女が告白の場所に選んだここは、彼女にとって最も心落ち着く場所。

 いつか、僕たちの家が一番落ち着ける場所になればいいと、そう思いながら僕はそっと玄関扉を開いた。

 大きくなったピアノの旋律に包まれた僕の心には、わずかな不安と期待、彼女のことを求める強い愛があった。


 妊娠した――そう聞いた時、僕は興奮よりも不安でいっぱいになった。体の弱い彼女が、果たして妊娠に耐えることができるのか。もし彼女が亡くなってしまったら――そう思えば、僕はとてもじゃないけれど手放しに喜ぶことはできなかった。

 けれど、彼女は心から笑っていた。僕たち二人の子どもが、いつしかやって来るだろう我が子を見ることが、待ち遠しくて仕方がないと。

 僕たち二人は、何度も話し合った。最終的には、互いの両親を交えて激論を交わした。彼女に無理をさせたくない僕たちと、子どもを産みたい彼女。どれだけ自分たち二人の子どもを待ち遠しく思っているか、何度も語られるその言葉にほだされて、やがて僕たちは彼女の意志を尊重することに決めた。

 姫のように彼女を守り、些細な風邪をひくことがないようにと注意した。実家が近い僕たちの両親も、度々彼女を見守りに来てくれた。そうでもしなければ、彼女は町内会の仕事等、大変な作業を気にすることなく行ってしまうから。

 彼女のことが心配でたまらなくて、けれど少しずつ大きくなっていく彼女のお腹を見て、実感が強まっていく我が子の存在に心が躍った。

 きっと、可愛い子が生まれるだろうと思った。彼女に似て、心優しい子になるのではないだろうかと思った。優しげに微笑を湛えて我が子を抱く彼女の、聖母のような姿を幻視した。子どもは男の子だろうか、女の子だろうか。どんな名前がいいだろうか。どんな子に育つだろうか。

 たくさんのことを、彼女と話した。

 いつしか僕たちの間には、希望だけがあった。

 希望だけを見ていた。胸に抱いたその光は、決して消えないと、そう思っていた。

 幸せだと、彼女は笑った。

 幸せだねと、僕は言った。

 そうして、手を取り合って生きていた。


 海に面した小さな町。あまり人が来ることもない、どこか閉塞感のある町でもあった。

 生まれ育ち、そして僕たちは骨をうずめるだろうと思っていたその町は、小さく、けれどだからこそ近隣の付き合いの豊富な、温かな町だった。挨拶が絶えず、心温まる社会が、そこにあった。

 そのため、僕は安心して彼女に留守を任せ、もしもの時はお願いしますと近隣の人に頼み、その日も仕事に向かった。

 彼女のお腹ははっきりと大きくなっていた。どうにも過保護になっていた僕を遮り、適度な運動が大事なのだからと、彼女は一日三十分ほど散歩をするようになっていた。夏の日差しに耐えるため、出歩くのは大抵、陽が落ちる少し前。やや涼しくなったその時間、いつものように海沿いをのんびり歩いている彼女のことを思いながら、僕は職場で仕事をしていた。

 子どもが成長したら、三人で海に遊びに行こう。砂浜で彼女と手をつないで、元気いっぱいにはしゃぐ子どもを見ながら苦笑を交わすのだ。

 夕日に照らされる砂浜を走る子どもが振り返る。大きく手を振る。隣で、彼女が口元に手を当ててくすくすと笑う。僕もまた、子どもに向かって手を振り返す。


 温かな妄想を切り裂くように、一本の電話が入った。

 手が震えた。動かなくなった手から、受話器が落ちた。

 地面を転がった子機の蓋が外れ、甲高い破壊音を響かせた。

 その言葉に、視線が集まる。誰かが、息をのんだ。そんな周囲の様子にも気づかず。

 僕はただ茫然と立ち尽くしていた。

 ――彼女が、死んだ。

 その知らせを聞いてからしばらくのことが、僕には全く思い出せなかった。


 捜索隊からの知らせを、じっと待ち続けた。暑い夏の夜のはずなのに、ひどく体が冷えていた。ガタガタと音を立てそうになる歯を、ぐっと噛みしめた。不安を、飲み込む。

 大丈夫、きっと大丈夫だ。彼女は、無事なはずだ――

 けれど、どれだけ待っても彼女が見つかることはなかった。

 彼女は、妊婦であるにも関わらず、溺れている子どもを助けるために海に入り、流された。そんな彼女の帰りを、僕はただただ待ち続けた。

 この町で海に入る者はほとんどいない。離岸流のために、とりわけ子どもは決して海に入れない。けれどたまに、親の言いつけを破った子どもが保護者の監視なく海に入る場合がある。

 今回もその事例だったという。

 そんな馬鹿な子どものために、彼女が死んだ。彼女と、お腹の中にいる子が、死んだ。

 いや、違う。死んでしまったはずがない。だって、今日だって、彼女はいつものように屈託のない笑みを浮かべて僕を仕事に送り出してくれた。

 あたたかな、陽だまりのような笑顔。頬に浮かぶ片えくぼを彼女は気にしていて、けれどそんな彼女のすべてがいとおしくて。

 そっと抱きしめた彼女のぬくもりが、この腕の中には確かにあったのだ。

 顔を覆っていた手を、じっと見つめる。虚空に、何かを求めるように手を伸ばす。

 その手は、何もつかめない。誰も、抱きしめられない。

 ただ僕は、おのれの胸を抱いて震え続けた。

 お願いだ。お願いだから神様、どうか彼女を救って下さい。彼女を守って下さい。

 都合のいい時だけ神頼みをする僕に、神様は応えてくれなかった。

 結局、彼女が見つかることはなかった。生きているのか、死んでいるのか、それすらもハッキリすることなく、捜索は打ち切られた。

 僕はただただ、空虚な日々を送ることとなった。


 いつも、彼女の姿を探していた。二言目には自然と彼女に言葉を投げかけていて、彼女がもういないということを突き付けられた。家が、異様に広く感じた。

 誰もいない僕たちの愛の巣は、けれど絶望を突き付けられるだけの場所に変わっていた。彼女がいないという事実だけがそこにあった。彼女のいない日常が、当たり前のように僕のところにやってくる。引き裂かれるように胸が痛んだ。ぽっかりとあいた空虚な穴が、日に日に広がっているような気がした。

 その苦痛に、彼女がいないという現実に、耐えられなかった。

 僕は生まれて始めて、旅行以外の理由で町を出た。町から逃げた。彼女との記憶から逃げた。

 逃げるしかなかった。だって、それ以外に僕は自分を守る方法を思いつかなかった。

 彼女のことを忘れてしまえば、きっとそれなりに幸福に生きていくことはできたのだろう。けれど、それを僕は許さなかった。彼女のことを忘れてしまう僕自身を、決して許せなかった。

 だから、消極的に、彼女のことを頭から一時的に排除する道を選んだ。

 これは忘れようとしているわけではないと、心の中で言い訳を重ねながら。

 現実から目を逸らすように、僕は故郷から遠く離れた町でがむしゃらに働いた。家に帰れば倒れこむように寝て、休日もまたひたすら惰眠を貪り、会社に行く。その、繰り返し。

 最初は心配していた同僚も、けれど次第に何も言わなくなった。

 僕はただひたすらに働いて、けれどやっぱり、彼女のことを忘れることはできなかった。


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