第20話 逃げ切った翌朝
怪盗の逃げ足は凄まじかった。
一切脇目を振らず、事前に決められていたルートをなぞるだけみたいな、清々しいくらいに全力の逃げっぷりだった。
客室の窓から耳を澄まし、空気の匂いを嗅ぐ。
追っ手の気配はなし。
霊術による探知を受けてる感じもしない。
犬笛の音は、いつの間にか聞こえなくなっている。
どうやら、安心してよさそうだ。
(……息を切らさないで走りきれた。……日頃から鍛えていた、おかげですね)
(ホッホッホッ。人狼になって肺活量が増えたのもあるでしょうがな~。鍛えれば、京都から東京まで三日で往復できますぞ)
(それって遠いの?)
なんて軽口を交わしつつ、残りの魔力を使って汚れを落とし、外出の痕跡を消してからベッドに潜り込む。
バクバク鳴ってる心臓を深い呼吸法で落ち着かせ、その日は眠りに落ちたのだった。
かくして、翌朝。
「ふぁあ……」
挨拶を済ませて馬車に乗るなり、大あくびだ。
代官屋敷では貴族としてのメンツがあるから、我慢しなくちゃならなくて苦労させられた。
「シエル様、寝不足ですか? もしかして、昨日言ってた変な音のせいで……?」
「んー、どうなのかな? もう聞こえないけど」
言葉を濁す。
夜歩きで睡眠時間が削れたせい――日課である秘密の鍛練をサボらせてもらえなかったのもある――なんて知れたら叱られるじゃ済まないので、ソラからこれ以上追及される前に話題を逸らさないと。
「そんなことより、さ。明け方騒がしかったのって、何だったのかな?」
朝の鍛練が終わった頃のことだ。
屋敷の外で、何やら人が激しく走り回っているのが聞こえた。
昨日の今日なもんだから気にはなったんだけど、身だしなみを整えて朝食を取って代官にお礼を言ってと慌ただしく、調べる機会がなかったんだよね。
一応、ソラには可能な範囲でいいから聞き込みを頼んでおいたんだけど、
「……近所で事件があったらしい、っていうくらいの話か聞けませんでした」
とのこと。
ソラもぼくの専属として忙しかったから、屋敷の内勤としか話せなくて外の出来事まではわからなかったらしい。
「その事件というのは、ロンバス商会で起こったらしいよ」
意外にも、父様が口を挟んできた。
馬車に揺られながら書き物をしていた父様は、ペンを止めることなく話を続ける。
「なんでも、泊まり込んでいた者たちがまとめて失踪したそうだ。通いの職員が朝になって来てみたら、大量の書類や金品とともに消えていたんだとか」
「……お、お詳しいですね。伯爵様」
「優秀な部下がいるからね。必ずしもソラに必要な能力とは言わないが、興味があるなら早めに覚えるようにしなさい」
情報収集していた様子もなかった父様が、事件について把握していることに、ソラは戦慄する。
その隣で、ぼくは考え込んでいた。
「父様。ロンバス商会って、アヤメの花の紋章でしたっけ?」
「そうだよ。上級貴族とも付き合いのある老舗だ。うちの城下には支店もないのに、よく知っていたね」
「ええ、まぁ……」
これまた言葉を濁す。
薄々感じていたけれど、やっぱり昨日忍び込んだ場所だ。
一夜明けてもぬけの殻になっていたというのは、それはつまり……
(アイツら、逃げやがったなァ)
(……決断したら、素早く徹底的に。……遁走術の鉄則とはいえ……思い切りがいいですね)
(がんばってお手紙書いたのに、ムダになっちゃったの)
手紙というのは、昨晩目撃したことに関する密告書だ。町の中で人狼が飼われてるなんて重大事を知ったら、通報しないわけにはいかないからね。
悪戯と思われないよう文面を考えて、少ない空き時間を使って代官宛てに届いていた郵便物に紛れ込ませておいたんだけど、逃げられた後じゃ意味はなかったかもしれない。
(だが、密告の信憑性が増したと考えれば、一概に悪くもないのである。おそらく、ロンバス商会に対する調査がより厳しくなるはず。人狼への警戒も高まるであろうしな)
……だったら、いいな。
あれだけの数の人狼だ。何から何までどう考えても、最悪の想像しか浮かばない。どうかどうか、一刻も早い解決を願うばかりだ。
まあ、ぼく自身は夜歩きがバレるのは嫌だし、これからディルフィーネ皇女を訪問しなきゃならないから、かかわずらったてられないんだけど。
「ふぁあ……」
「またあくび。……ミスミの町に着くまで、お休みになりますか? 午前のお勉強、なんて言ってられなさそうですし」
「うん……皇女殿下の前であくびでもしたら、シャレになんないよね」
気遣いに甘えて、瞳を閉じる。
微睡む意識の中、馬車がスピードを上げた拍子に体が傾いて、柔らかな梔子花の香りに受け止められた気がした。
*
石に囲まれた暗がり。
煙と獣の匂いに淀んだ空気。
松明一つを頼りに、数人の人影が集っている。
「持ち出した資料の焼却を完了しました」
「偵察が戻りました。表向きは、職員が金品の持ち逃げしたものと目星をつけている様ですが、一階部分の調査が執拗なことから地下の存在を疑っている可能性がある、とのことです」
「通路の破壊、完了しました。仮に地下の調教場が見つかったとしても、そこから先へ進むことはまかりなりません」
もたらされる報告を、杖を持った病人風の影が黙って聞いていた。
目深に被ったフードの下、死体色の喉が呼吸をするたび苦しそうに喘鳴する。
『……昨晩取り逃がしたネズミは、どうした?』
ひどく掠れた声だ。
ノコギリで引っ掻いたようにしゃがれており、大人か子どもか、性別すらもはっきりしない。
「例の侵入者については、不明です。町の騎士団の動きからして、何らかの接点が疑われますが……」
「面目次第もありません。やはり、『成鳥』を使ってでも追跡すべきでした」
『……よい』
平伏する配下を手で制し、病人は数瞬の黙考を経て口を開いた。
『計画を早める。仕込みは済んでおろうな?』
「抜かりなく。連絡が入れば、いつでも動き出せるよう手配してございます。前倒しするとしても、昼までには準備が整うでしょう」
『では、すぐに通達を出せ。何か妙な真似をされる前に、先手を取って事を起こす』
「「「ははっ!」」」
士気高く、配下たちは散会する。
彼らを見送り、一人残った病人はおよそ生き物のそれとは思えない濁った両眼で虚空を睨み、忌々しげに呟くのだった。
『必ずや、ロマカミの怨みを思い知らせてくれようぞ。せいぜい指を咥えて見ていることだ。――――のう、デュオよ』
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