第12話 赦しと誓い

 目が覚めると、今度は慣れ親しんだベッドの上だった。

 アルクアン伯爵家の子ども部屋。だけど前回と違ってやけに静かだ。天井が赤みがかっているのは、窓から夕陽が差しているから。


 ……生きてる?

(みたいッスね。思考は良好、熱も下がってるし、肉とか骨とかまだ痛いけどすぐに治まりそうッス)


「ぅ……んん」


 ベッド脇で声。

 見ればソラが寝こけていて、初めてぼくは彼女の手を握っていたことに気付いた。

 ずっと離さずにいたのだろうか、気絶している間に寝間着へと着替えさせられていたけれど、左腕だけは袖を通していない。


「……。……ソ」

 ぐぎゅるるるるるるるるるるるるるる!!


 話しかけるか迷っていたら、腹の虫が盛大に鳴いた。

 部屋中に響き渡るほどの大音量で、ソラを起こしてしまう。


「うん……。……っ! シエル様!?」

「……お腹すいた」

「え。あ……はい、ただいま!」


 体裁が悪くて俯いたら、ソラはどこか声を震わせて、傍の机へと向かう。製薬の素材や道具が片付けられた代わりに置いてあった大皿の蓋を取ると、それは濃い黄色のオムレツだった。


「お医者様に言われて、ご用意してます。もう冷めちゃってると思いますが」


 温かさは、この際どうだっていい。

 ぼくは矢も盾もたまらず皿とスプーンを受け取ると、オムレツを頬張った。中までズッシリ詰まった刻みキノコ入りの玉子は噛むごとにバターの香りを放ちながら崩れ、食道を下りて空っぽの胃袋を満たしてくれる。がっつきすぎて喉を詰まらせたら、すかさずソラが温め直したミルクを差し出る。ハチミツの甘さと爽やかな塩味が乳臭さを打ち消しており、濃厚な旨みだけが舌にからみついた。


(わふっ。キャンキャン)

(おいしいの!)

氷喰鳥ひくいどりの卵に吸血茸きゅうけつたけ深山羊みやまひつじの乳であるか)

(高タンパク高カロリーのオンパレードッスね)


 デュオ陛下やナナ姉さんが、冷静にレシピを分析する。

 美味しいのはもちろんだけど、それ以外にも意味のある料理なんだ、と。


(肉体を変異させるのに消費した栄養を補給するには、もってこいッス)


 ――変異。

 その言葉が、重くのしかかった。

 五人分はあるだろう巨大オムレツとポットいっぱいのミルクを平らげて一息ついてから、ぼくは意を決してソラに訊ねる。


「ねぇ。鏡、見てもいい?」

「………………………………鏡ですか」


 長い長いがあった。

 オムレツを食べている間は嬉しそうに目を細めていたソラが、手の平を返したように顔を曇らせる。


「えっと、ですね。……そういうのは、別に今じゃなくても……」

「……ぼく、そんな酷いことになってる?」

「い、いえ! ぜんぜん大丈夫ですよ。ただ、心の準備をしてほしいって思っただけでして」


 情けなく眉を下げたら、ソラは慌てて部屋の反対側に設えてあった姿見を動かしてくれた。

 ベッドの前まで運ばれてきた鏡に、ぼくの姿が映り込む。


「本当に、シエル様のお姿はほとんど変わっていません」


 前もってソラが教えてくれた通り、顔かたちは元のままだった。

 頬に触れてみても、以前と同じ柔らかさ。

 変わったと言えば、八重歯が少し大きくなったかもしれない。瞳の色が薄くなった気がする。頭髪は、疑う余地なく長くなっている。そして、野放図に伸びた髪をかき上げると――現れた耳は短い毛に覆われていた。

 ヒョコヒョコ、と三角形に変化した耳が落ち着きなく動く。


「…………」


 黙ったまま、首から下も確認。

 前面は少年らしくほどほどに引き締まった白い胴体だけど、背中は一変していた。

 まるで髪の毛が南下侵攻したみたいに、全面にブロンドの毛が生い茂っていたんだ。寝間着に収まりきらなかった毛がズボンからはみ出していて、握ってみると硬い肉と骨でできた芯が通っている。


「…………」

「……」

「シエル様、申し訳ありません!」


 沈黙に耐え切れなくなったように、ソラが頭を下げた。

 ベッドのシーツに額を擦りつけ、ひたすら「ごめんなさい」を繰り返す。


「わたしのせいで……わたしが、守らなきゃいけないのに……逆に守られて、取り返しのつかないことに…………本当なら、わたしが……!」


 懺悔とも慟哭ともつかないかすれ声。

 鼻を突くほどに濃い、涙の匂い。

 ここまで懸命に堪えていたんだろう。自責の念が決壊するのを目の当たりにして、ぼくは言葉を失い、それでも何とか探し集めて、ソラの肩に手を置いた。


「きみが、無事でよかったよ」

「……え?」


 ソラが顔を上げる。

 赤く腫れた目を愕然と見開く彼女に、ぼくは笑いかけた。


「ほら、ぼくは耳とか背中とかがこんなになっちゃったけど、他は何ともないでしょ。手足もあるし、目も見えるし、言葉も話せる。心まで変異することもなく、シエルのままでいられた」

「それは……そうですけど」

「失くしたものより守れたものの方が多い。それにプラスして、ソラも元気に帰ってこれた。損得で考えれば、十二分に黒字だよね」

「……」


 あっけらかんとした物言いに、ソラはついてこれていないみたいだけど、構わず続けさせてもらう。


「ぼくが咬まれたのも、『守られる』ための動き方をしなかったせいだからね。でも、ソラが代わりに咬まれてたら、霊術で人狼をやっつけてもらえなかっただろうし……霊術って言えば、倒れたぼくを関所に運んでくれたのもソラなんでしょ?」

「は、はい……シエル様だけ先に転移させて、わたしは馬で……二人まとめて飛ばすのは無理ですから」

「ぼくじゃそうはいかなかっただろうね、転移法まで習ってないもの。やっぱり、あの場ではソラを守る方が正解だったんだよ」

「正解だなんて……そんな!」


 悲痛な声で、ソラが反論した。

 どれだけ理屈を並べようと、ぼくが人狼と化してしまったという現実はあまりにも大きすぎるのだ。使用人の分際で、主家の嫡男を差し置いて無事を臨むなんて……と思うのも、ソラの性格なら無理はない。ぼくとしては納得してるんだけど、さて何と言ったらいいか……。


「犬の耳とかも、考えようによったらさ。ほら、カワイイでしょ。わんわん、って」

「……っ……く……ぅ!」


 おどけて見せたら、ソラの表情がくしゃりを歪んだ。

 うつむいて、肩を震わせる。声を我慢し、ほどなくして再びこちらを向いた彼女には、決死の様相が浮かんでいた。


「申し訳……いえ、


 居住まいを正し、床に膝をつく。両膝立ちになり手の平を胸元で交差させるポーズは、宮廷作法における最上位の服従を示すものだ。


「わたし……ソラはお誓いいたします。シエル様に頂いた大きすぎるご恩に懸けて、この身この魂この一生のすべてをもってお仕えすると」

「えっ……そ、そこまで重く考えなくても……」


 生涯忠誠の誓いなんてソラにもぼくにも早すぎるし、ましてやその場の勢いですることでもない。

 思わずぼくの方が尻込みしてしまうけれど、それを内なる“声”がたしなめられた。


(臆してはならんのである、主人格どの)

 ……陛下?

(彼女は覚悟を固めているようである。ならばこちらも、生半可な態度では応じられまい。受けるにしても拒絶するにしても、きちんと腹を括るべきであるぞ)

 ……う、ん。そうだね。


 前世では皇帝だった人から助言をもらって、ひとまず動揺は通りすぎた。

 改めて、ソラを正面から見つめる。伏し目がちにぼくの返事を待っている、歳の離れた乳姉弟。――自然と、答えは一つに絞られた。


「シエル・I・アルクアンの名に懸けて。ソラ、きみとの誓約を束ねよう」


 儀礼に従って手を差し伸べると、ソラは両手で受け取って指先にキスを落とす。

 くすぐったいような甘酸っぱいようなムズムズとした感触。

 これが、伯爵家の息子としてではなく、ぼく個人として結んだ初めての主従関係だった。

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