第9話 感染

 ぼくは意識を失っていたらしい。

 次に気が付いたのは、見知らぬベッドの上だった。

 目がかすみ、鼻は利かず、耳鳴りが酷くて周囲の状況がよくわからない。アンブス樹海の関所に設えられた医務室だというのは、後に知ったことだ。


(ッ……あったま痛ェ)

(節々が悲鳴を上げているのである)

(うぅ……かなりの、高熱ですね)

(きもちわるいの……)

(くぅん……)

(――これは、かなり緊急事態ッスよ)


 一人の別人格が、切羽詰まった”声”を上げる。


(しんどいけど、寝てるヒマはないッス)

 ……うん、わかった。


 布団を払って身を起こすと、取り乱すシュシュタイさんを関所の常駐医と二人がかりで追い出していたソラが血相を変えてすがりついてきた。


「よかった、気付け薬が効いたんですね。もう大丈夫ですよ。今から先生が……」

「……そういうの、いいから。状況の説明」」


 悲痛な笑みで安心させようとするソラを重たい腕で押しのけると、常駐医に目を向ける。陶器にも似た頭と太い眉毛の老医師は答えに窮するけれど、有無を言わせるつもりはない。


「はぁ、はぁ……『人狼に咬まれた者は人狼になる』、でしょ。ぼくは今……どのステージにいるの?」

「……そこまで理解しておられるのですか」

「ちょっと、先生!?」


 常駐医は観念したように肩を落とした。ソラが咎めるように声を荒げるけれど、それを制して先を促せば、専門家の顔で淡々と話し始める。


「運び込まれてきた時には、すでに変異が進行していました。今のところ外見に変化はありませんので、第2ステージの範疇かと思われます」

(なるほど。早いッスね)


 イトの授業で、人狼に咬まれた時の特効薬があるという話は聞いたことがあった。だけど、薬が有効なのはごく初期段階のうちで、症状が進めば効果はない。

 唯一の対処法である特効薬が使えないとなれば、後はもう肉体が人狼へと変異していくのを止める術はなかった。


(ア、ハァ。……被害者の七割は、変異に体が耐えられず途中で死ぬ。……仮に生き延びたとしても、十中八九理性を失くして野獣と化す……でしたよね)

(いかにも。また、変異直後の人狼は極度の飢餓状態に陥っており、近くにいる者を無差別に喰い殺すのである。吾輩の時代では、変異の疑いがある時点で即座に安楽死させるのが通例であった)

 ……安楽、死。

(し、死んじゃうの?)

(躱しきれなかったワタクシの失態ですな。よもや、傷口が濡れた程度でこうなるとは。……生まれ変わってからの九年、荒事に見舞われなかったとはいえ、平和ボケが過ぎましたか)


 恐怖と、後悔と、絶望と。

 暗い感情がぼくらの間に広がっていく。ソラは励まそうとしてくれているけど、その目尻に浮かぶ涙が心の内を表していた。

 ただ、例外の一人を除いては。


(――ふざけるな、ッス)


 知的な”声”が、怒りに燃え上がった。


(この程度のことでお手上げ? どいつもこいつも、簡単に決めつけすぎじゃないッスか)


 別人格の一人が、ぼくに詰め寄る気配がする。彼女は比較的、普段から代わりたがる方だけど、今回はかつてない迫力があった。


(ウチが表に出るッス。文句は言わせないッスよ)

 ……い、いいけど。どうするの?

(薬を作るッス)


 即答だった。

 迷いがなさすぎて受け入れるところだったけど、特効薬はもう効かないという話をしたばかりじゃないか。なのに今さら作ったって意味がないじゃなさそうなものだけど、彼女はやはり欠片の迷いもなく断言した。


(今ある薬が効かないなら、別のを作るだけッスよ。ウチらにも効くような、新しい薬を)


 ――新薬の発明。

 こんな土壇場でやるようなことじゃないくらい、九歳児にだってわかる。

 無茶苦茶で、不可能に決まってる……けど。もしかしたら、とも思ってしまう。他でもない彼女なら、不可能だって作り出してしまえるんじゃないか。


 ぼくの別人格の一人、魔法の発展した異世界から転生してきた大天才。『熱狂の錬金術師ファナティック・アルケミスト』の二つ名を持つ、ナナ姉さんであれば。


   *


 その瞬間のことは、特に印象的な場面としてソラの記憶に焼き付いている。


 目に見えて苦しげなシエルに対して、何と語りかけたところで舌は空虚に回るばかり。助ける術はないという現実が重くのしかかり、今にも絶望の淵へと落とされてしまいそうな、ギリギリの精神状態の中で、彼女は見た。

 唐突に、シエルが変化した。

 人狼化の変異が進んだわけではない。姿形は元のままだ。しかし、身にまとう雰囲気が、瞳の中に燃える知性が、明らかに入れ替わったのだ。


「――――……だ、れ?」

「誰って……へへっ。ウチはシエルッスよ」


 無意識に問うてしまった彼女に、幼い乳姉弟はどこか普段と異なる声色でほほ笑み返し、そして表情を引き締めると、常駐医を見上げて言った。


「急いで……よ、用意して、ほしい物が……あるッス」

「何でしょう。ワシに手配できる物であれば何でもおっしゃってくだされ」

「今から……はぁ……メモする道具と薬品。……でも、第一には人狼の死骸ッス。特に、唾液腺がほしい」

「……は?」


 常駐医は目を丸くした。

 おおかた、死に際のお坊ちゃまから最期のワガママ、とでも思ったのだろうが、出てきたリクエストは想像とはかけ離れていた。


「そ、そんな物で、いったい何を?」

「説明……してる時間……ないッス」

「しかしですな、人狼の唾液腺とは。死骸は騎士団が回収しておるはずですが、唾液腺を摘出するとなると……人狼化のリスクをともなう危険な作業です。それをいきなり言われましても、その……」

「――わたしがやります」


 尻込みする常駐医に痺れを切らして、ソラが進み出た。


「学院で、生物の解剖をやったことがありますから」


 恐れはある。

 大きく咬まれたわけでもないシエルが感染してしまった直後に、自ら人狼の唾液に触れるなんて怖くてたまらない。しかし、だから何だと言うのだ。守るべき主家の御曹司が死に瀕しているのに、自分は元気溌剌としている。そんな恥さらしが、我が身可愛いなどと冗談にもならない。


「とにかく、それを取ってくればいいんですね?」

「そッス。あと――」


 シエルから二、三の追加注文を受け付けた後、ソラは行動を開始する。

 学院でも愛用していた手帳を捲って目当てのページに栞を挟み、医務室から手術道具を拝借したら、部屋を飛び出していく。

 いざ、向かうは人狼との再戦だ。

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