第8話 人狼
人の耳には聞こえない笛の音が旋律を奏でた直後。
バギンッ!
鉄の鎖を引きちぎる、凄まじい音がした。
見れば、地下室に囚われていた一人。ずっと膝を抱えたままだった大人の男性が立ち上がっていた。
フード付きの上着が脱げ、裸の上半身があらわとなって――そして変異していく。
「う、うぐぐ…………ぐ……グルルルル」
あばら骨が浮くほどやつれた筋肉が隆起し、骨格が折れんばかりに軋みながら組み変わる。
背中から黒く縮れた毛皮が広がって、日焼けした肌を覆いつくす。
牙が巨大化し、収まらなくなった分だけ顎が長く伸びて、ドロッとよだれが滴り落ちる。
生理的に嫌悪と恐怖を抱かざるを得ない、ぼくは異様な光景を目の当たりにして……――――
(ボサっとすんなァ!)
(もう来ますぞ!)
(代わるのだ!)
心の声に叱咤されるのとほぼ同時、変異を終えた男が地面を蹴った。
異形と化した黒い影が、疾風のごとく跳躍する。
「ソラ、伏せて!」
「ぇ……きゃあ!?」
ソラを突き飛ばしたら、間一髪。空を喰んだ牙がガチリと鳴った。獲物を逃した男は着地すると、すばやくこちらに向き直る。
その姿は、もはや「男」と呼ぶことはできなかった。人間だった名残はほとんど失われた、大型犬にも似た凶悪な容姿。実際に見るのは初めてどけど、きっとあれがそうなんだろう。
「人狼とは……。前世では考えられませんな」
ぼくの舌が、老成した口調を紡ぐ。
リー老師と人格交代したことで、やかましいくらいだった胸の動機は潮が引くように静まっていった。強張っていた胆が据わり、視野が広がる。
人狼は後ろ足に力を込めて、再び跳躍の構え。狙いはソラに集中しているみたいだ。レットは階段の方へと下がっていたけど、剣を抜いており立ち去る気配がないから、出口を塞ぐのが目的だろう。他の囚われ人は、ただ怯えているだけなので無害と判断。
そして転んだソラは、初動が遅れたがゆえにこのタイミングで手番が回ってきた。
【タイ小:*▲?*】
【こうか:+>♂軌道指定&@%】
【初どぅ:■¥〒】
速記。
急ぐあまり字体は崩れてほとんど意味を成さず、誤記だらけの呪紋は流し込まれた霊力を正しく変換できずにショートを起こして、歪んだ形で物理空間に顕現する。
BANG!!
曲げすぎた板が折れるように、空間がたわんで弾けた。
暴発したエネルギーはかろうじて呪紋が正確だった部分によって制御され、指向性を持って敵対者を強襲する。人狼は俊敏な反応で飛び退くけれど、衝撃波は術者の意図に操られて屈折し――レットに直撃した。
「がっ!?」
自分の方が狙われるとは思わなかったのか、レットは壁に叩き付けられる。
手から剣が離れて、外へと上る道が開かれた。
「今のうちに逃げてください!」
ソラが叫んだ。
ぼくだけは助けようという覚悟か。人狼に向かってもう一度霊術を放とうとしているけれど……それじゃダメだ。どれだけ早く書こうとも、人狼の速度には追い付かない。
リー老師の観察力と経験則は、人狼の重心バランスと視線と筋肉の動きから、すでに看破していた。ソラの呪紋が半分もできあがらないうちに、奴は牙を届かせることができる。
……老師、ソラを!
「言われなくとも」
思考から地を蹴るまでのラグは皆無。水が流れ落ちるような体捌きでソラの許へと駆ける。
人狼が跳んだ。
速い。
二度目なのに、目で追うことすらままならない。
だけど老師は、迷わず手を伸ばした。見えていないのは、五感を共有するぼくからも明らかなのに、どうすればどこで何秒後どんな風に人狼へ触れられるのか、完璧に把握している。
目算ピッタリ。
手の平に、ゴワゴワした毛皮の感触。
「空心流柔術――
ズン――ッ! と。
重力が増したのかと錯覚した。
真下へ向けた全身発勁は、事実として体重以上の加重を瞬間的に発揮する。やんわり腕に触れただけの手から、見た目からは予想できない“重さ”を押し付けられた人狼は、わけもわからぬうちに引き落とされて、横倒しになった。
下は硬い石畳。かなり痛いはずだ。
ダンスのように鮮やかで、奇術のように不可思議な異世界の武術を見たソラは、霊術を準備中だったのも忘れてあんぐり口を開ける。
「シ、エルさ……」
「しっかり。まだ終わっていませんぞおっとぉ!?」
「ガウッ!」
言葉を交わすヒマもなく、人狼が咬み付いてきた。
人間ではありえない可動域で、異形の頸がグルンと旋廻する。
勢いで毛皮の下の筋線維がぶち切れるほどの、凄まじい気魄だ。
老師は慌てて手を引っ込めるけど、ぬらりと糸を引く犬歯が右の袖に引っかかって布が裂ける。ボロと化したシャツと、ぼくの腕くらい肘まで飲み込めそうな大顎に、背筋がヒヤリと冷えた。
いきり立った人狼は、ソラからぼくへと標的を変えたみたいだ。
恐ろしい唸り声を上げ、よだれを振りまいて喰らいかかってくるのを、老師は最小限の動きで躱す。
腰の捻りと首の緊張具合から軌道を見切って、右に左にと体を開いて紙一重。台風のようなパワーとスピードを、読みの正確さと無駄のない身体操作で捌いていく。
「……。……っ! し、シエル様から離れなさい!」
五、六回ほども回避をしたところで、ようやくソラは我に返ったようだ。
書きかけだった呪紋をすばやく完成させ、その指先を人狼へと突き付ける。
「効果は【激震】。……行け!」
強烈な震動エネルギーに変換された霊力を、人狼は避けられなかった。ぼくに気を取られていた横合いから霊術を撃ち込まれると、人狼は動きを止めて一瞬の後、体中から血を噴き出して崩れ落ちる。
「……おぉ。マジかよ、人狼を殺っちまったぃ」
驚きを通り越したような呆れ声は、レットだ。
痛てて、と首筋をさすりながら身を起こして、人狼の亡き骸を見遣って残念そうに嘆息する。
「嬢ちゃんはまだしも、坊やがここまでデキるたぁな。……こいつぁ負けたぜ」
そう言い捨てると、尻尾を巻いて階段を駆け上っていく。――ありがたいことに。
「シエル様!」
ソラは追うべきか逡巡したものの、結局は無視してぼくの方へと駆け寄ってきた。ぼくはその場に立ったまま、食いしばるようにして訊ねる。
「……敵は?」
「人狼はやっつけたし、レットは逃げました。もう大丈夫ですよ。それよりもシエル様、お怪我は……?」
「う、ん。平気……だと……思ってたん、だけど…………」
それ以上は、しゃべることができなかった。
足に力が入らない。突然倒れたぼくをソラが抱き止め、必死で名前を呼ぶのが妙に遠く聞こえる。
……どうしちゃったんだろう。
薄れゆく意識の中で、ぼくは考える。老師はきちんと人狼の攻撃を回避していて、行動不能になるキッカケなんてなかったはずなのに。
ただ、右腕の袖を咬みちぎられた際に掠めた傷。うっすらと付いた小指の先ほど切り傷が、熱っぽく疼いていた。
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