第5話 リー老師の武術鍛錬
四つあるルールのうち、三番目だけ飛ばしてしまっていたから、外出禁止されてる間に説明してしまおうか。
ルール③ 人格交代は、主人格と当人両方の合意の下に行われる。
多重人格であることはなるべく秘密にしたいものの、内側に引っ込んで感覚を共有しているだけは満足できるほど、他の人格たちは物わかりがよくなかった。
時には心の声として口出しするだけに飽き足らず、自ら体を動かしたがることがあったし、そうしてもらった方がいい場面だって多い。だから、人知れず人格を入れ換える場面は度々あった。
(主人格どの~。そろそろ約束の時間ですぞ。早く代わってくだされ~)
「……もうちょっと寝たいんだけど」
早朝。ぼくは眠け眼をこすりながらベッドを抜け出した。
初夏ともなると、日の出も早まってきているものの、空の色はまだまだ薄暗い。うーんとあくびをしてから感覚を研ぎ澄ますと、階下では早起きな使用人が夜勤の者たちと入れ代わりに動き出すのを感じとることができる。
……子ども部屋の方まで上がってくる気配はなし、と。今なら大丈夫そうかな。
ひと気がないことを確かめてから、意識を換える。
――文字通り、入れ換わった。
『ぼく』の意識が胸の内へと引き下がり、別の人格が表に出る。見える景色が、聞こえる音が他人事のように遠のいて、体が自分のものでなくなったかのように言うことを聞かなくなる。
「ホッホッホ。感謝しますぞ、主人格どの」
『柔拳武聖』ス=リー。
ぼくの体で、穏和に枯れた好々爺のように笑う老師の名前だ。
享年99才。前世ではニホンとかいう国に暮らしていて、異邦人ながら土着の古流柔術『空心流』の当主となった武術家らしい。国名から何から他では聞いたことのない単語ばかりで、霊術という大昔から人々の生活に関わってきた技術も知らなかったことから、異世界の人間だったんじゃなんじゃないかと予想された。
もっとも、異世界であっても違っても、老師には関係なさそうだ。
生まれ変わっても再び柔術を極めたいからと、鍛練するための人格交代を定時予約して、毎朝毎晩ヘンテコな体操を続けている。
「スゥ…………コォォォォォ」
独特な呼吸法で気を整えながら、老師と交代したぼくの体は奇妙なポーズを取る。
左右に広げた膝を直角に曲げたカニみたいな立ち方で、両手はハグするみたいに前方で輪っかを作るポーズだ。
それをゆ――っくり、時間の流れを遅らせているかのようにノロノロと上体をひねっていき、真左を向いたら輪っかを解いて、腕を伸ばしながら前後に体重移動。
「いやはや、幼い体を鍛えるのは愉快ですな~。柔軟ですし、変なクセもついていないので素直に吸収してくれます。しかも自分自身の体ですから、言葉では教えられないような繊細な感覚をダイレクトに反映させることができますのでな」
四才の頃からもう五年も続けているのに、老師は飽きもせず毎日楽しそうだけど、実のところ気持ちがわからないでもなかった。
――足裏から床へと体重の伝わり方が、ほんの少し体勢を変えただけで劇的に変化する。
――指を一本動かすだけでも、全身の筋肉が連動する。
――腰がブレないように、と力を込めると動きも硬くなるから、締めながらも柔らかさを忘れない。
――体幹から指の先端に至るまで、千万の筋繊維から骨の一本血流の一滴すべてバラバラに制御するイメージ。可能な限りゆっくりと引き延ばし、ミクロン単位での微調整を絶えず行っていく。
遅く遅くスローリーに動かすことで、筋骨や重心の微妙な変わりぶりを観察するのは、騎士団の指南役から教わる皇州式剣術とは次元の違う視点であり、存外に面白かった。
それはそれとして、正直なところけっこう恥ずかしい動きなので、誰かに見られたらどうしようかとヒヤヒヤしている。
あと太ももや二の腕なんかがプルプルして辛いんだけど、体のコントロールを明け渡してるから止めるに止められない。
(し、しんどいの……)
(こんな意味不明な運動で、成果が出てるのがいまだに謎なんスけど)
(強くなりてェんなら、もっとやることがあんだろォがよ)
肉体の経験は苦痛も含めて共有しているので、他の人格から不満が上がることもしばしばだけど、老師はお構いなしだ。
短い体操5セットをノロノロ小一時間もかけて完了し、汗を拭いて体操していた痕跡を消して、外がすっかり明るくなった頃。ソラが起床を告げにやって来る。
「おはようございます、シエル様。今日も早起きですね」
挨拶を交わし、着替えを済ませて、朝食を取りながら今日のスケジュールを確認する。
いつも通りのルーティン。
いつもと変わらない、一日の始まり。
だけどこの日は、いつもとは全然違う特別な日となる。その前触れとなるのは、イトからの伝言だった。
――外出禁止を解く、と。
「やっと許してもらえた……」
「ここ三日、言い付けを守って良い子にしていた甲斐がありましたね」
どっと肩の力を抜いたら、ソラは可笑しそうに口元を隠した。
「今日にでも、さっそくお出かけしますか?」
「うん、そうだね。父様にお願いしにいかないと」
「じゃあ、わたしは騎士団から護衛を寄越してもらえるように調整しておきますね」
かくして、諸々の準備を整えた昼下がり。
荷物を鞄にまとめて玄関を出ると、ぼくと揃いの乗馬服に着替えたソラが外で待ってくれていた。普段のお仕着せはスカートなので、脚の線が出る格好は新鮮だ。
ソラの傍には、帯剣した騎士が護衛役として控えていた。
彼は名前をレットといって、汗とタバコの臭いがする無精ヒゲを生やした男だ。もう十年近くの古株で、護衛役としてはけっこう常連である。
「今日はよろしく、レット。急に声をかけてごめんね」
「まったくでさぁ。こういうのは、もうちょい余裕を持ってほしいもんで。……やっぱし、明日にしやせんか?」
「それは嫌かな。ずっと我慢してたんだから」
遠慮なく文句を垂れるットの後ろでは、城壁の内側に造られた池から馬が三頭、馬番に呼ばれて陸に揚がってきているところだった。
白毛と栗毛と黒毛の
濡れた馬体は、爬虫類のウロコみたいな体毛に覆われている。その足は大きなヒレになっていたけれど、乾いた地面に触れると扇形に開いていたのが細く硬く絞られて、陸上用の蹄へと変形させた。
(霊術なんてェ便利なもんがあんのに、移動は馬なんだよなァ)
(槍をちょっと飛ばすのとはわけが違うのである。人間を三人も転移させるとなると、コストがかかりすぎるのでな)
(しかし、陸にいるか水中にいるかによって変身する馬というのもファンタジーですな~。など、ワタクシの前世では空想の産物でした)
(竜馬は変形器官を持ってるだけの自然動物ッスよ。ウチはあんなの、魔法生物とは認めないッス)
馬番が水気を拭くのを待ってから、ぼくは自分の竜馬である白毛に鞍を着ける。
乗馬は貴族のたしなみなので、馬具の装着も手慣れたものだ。
跨るのにも、何ら危うげがない。
介助を受けるまでもなくヒラリと。軽いジャンプで鐙に足をかけたら、その一点に体重を預けて一気に鞍の上にまで体を持ち上げた。足腰を据えてしっかり馬体を捉える一方で、上半身はリラックスさせることで柔らかく揺れを受け流す。
「シエル様、本当にお上手ですよね」
「まったくで。騎士団の新入りどもに見せてぇくらいだ」
重心の安定や、力を入れたり抜いたりするのは、人の顔と名前とを一致させるくらい自然な感覚だけれど、大人からはスゴイさすがと褒められるから、当たり前のことじゃないみたいだ。
これもリー老師の鍛錬の賜物……なのかもしれない。
「それじゃあ、出発しようか」
ソラとットも支度を終えるのを待ってから、城門をくぐって外に出た。
門番たちの会釈に応えて、坂道を下った先には城下町が栄えている。その向かって右手は深く険しい森が広がっており、そこにぼくの目的地はあった。
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