ゼロの真実

「でも……何でそれを俺に? 零夢は、あなたにこいつを預かってほしいって言ったんでしょう?」


 昴が最もな疑問を口にした。だが、尾瀬は落ち着き払って首を横に振った。


「私は申し上げたのです。お嬢様の大切なその人形をお預けになるには、私などよりも、もっと相応しいお方がいらっしゃると……。昴様、そして凜様、あなた方のことでございますよ」


「俺達が?」


 昴は自分を指さして怪訝そうな顔をした。凜も同じ気持ちだった。昴だけならともかく、どうして自分の名前まで挙がるのだろう。


「お嬢様が家を出てしまわれた時……私は自らの至らなさを悔やみました」尾瀬が皺の刻まれた顔に影を落として言った。


「お嬢様が幼い頃からお仕えしている身でありながら、何のお力にもなれなかったのですから……。ですが、お目覚めになったお嬢様からあなた方のお話を聞き、私は悟ったのです。あなた方が私に代わって、お嬢様をお守りしてくださったのだと」


「いや……でも俺は、零夢を危ない目に遭わせてしまった。あのまま夢の中から帰って来れない可能性だってあったのに、それであの子を守ってただなんてとても……」


 謝意を示す尾瀬とは裏腹に、昴の表情は苦しげだった。凛も急いで言葉を続ける。


「あたしだって、あの子とそんなに関わりあったわけじゃないよ。まぁ、最終的にはいろいろ言った気もするけど、だからって感謝されるようなことは……」


「いえ、それは違います」


 尾瀬がきっぱりと言った。それから静かな、それでいて力強い眼差しを凜達の方に向けて言った。


「お嬢様がこうして現実の世界を生きられるようになったのは、ひとえにお二人のおかげでございます。

 まず昴様ですが、お嬢様が家を出てしまわれた後、お嬢様の傍にいてくださったのはあなた様でした。あなたはお嬢様を夢の世界に連れ出し、お嬢様に長い夢を見せてくださった。グレイス様という存在を失い、心の拠り所をなくしたお嬢様にとって、その夢がどれほど救いになったかは想像に難くありません。悲しみの淵におられたお嬢様に、あなたが手を差し伸べてくださったのですよ、昴様」


 尾瀬が優しげに目を細めて昴を見る。気恥ずかしさをごまかすためか、昴がこめかみの辺りをぼりぼりと搔いた。


「そして凜様。お嬢様をこの世界に呼び戻してくださったのは、他でもないあなた様です。確かに夢の中でお嬢様は、傷ついたご自身の心を癒やすことができました。ですが今度は、その夢から戻ってくることができなくなってしまった。現実に戻ったところで、また辛い思いをするだけだとお考えになったのでしょうね。

 ですが、お嬢様のそんな御心を凜様のお言葉が変えた。お嬢様は仰っていましたよ。自分のお名前にこめられた本当の意味を、あなたが教えてくださったのだと。あなたと出会って、お嬢様の中で確実に何かが変わったのです。

 もしお嬢様が凜様に出会わなければ、お嬢様はきっと、今もこの人形にすがって生きるしかない、か弱いお嬢様のままだったでしょう。あなたがお嬢様に、この世界で生きるための強さを与えてくださったのですよ、凜様」


 凜は目を瞬かせて尾瀬の顔を見返した。自分の言葉が、あの弱々しかったお姫様の心を変えた。それは事実ではあるのだろうが、こんな風に感謝の念を持って語られると、何だかくすぐったくて仕方がないのだった。


「だからこの人形は、あなた方に持っていて頂きたいのです」尾瀬が話をまとめるように言った。


「あなた方のどちらかがその人形を持っていてくださるとわかれば、お嬢様もあなた方の存在を思い出しながら、この現実の日々を乗り越えていけるのではないかと思うのです。そしていつか、お嬢様が夢の力に頼らずとも生きていけるようになった時、お二人の手で、それをお嬢様に返して頂きたい。一人の人間として、立派に生きているお嬢様の姿を、お二人に見届けて頂きたいのですよ」


 昴は腕を組み、じっと何事かを考え始めた。凜はその横顔を見つめながら、夢遊界で会った零夢の姿を思い出していた。真っ赤なドレスに身を包み、美味しそうに紅茶を飲んでいた零夢。誰かに守ってもらわないと生きていけないような、無邪気で脆いあのお姫様はもういない。

 零夢は今、自分の力で生きようとしていた。フローレス零夢という現実に存在する人間として、新たな人生を歩み始めようとしていた。その決意の証として彼女がゼロを託すというのなら、それを受け取るべき相手は自分ではない。


「あんたが受け取ったら?」


 凜があっさりと言い、昴が意外そうな顔を向けてくる。凜は何でもないような顔を作ると、座席に身をもたせて言った。


「だってそうでしょ? あんたはあたしよりずっと長いこと零夢と一緒にいたんだから。零夢だって、あたしよりはあんたにゼロを持っててほしいって思うはずだもん。

 それにあんただって、どうせこれからもずっと零夢のこと気にし続けるんだろうから、あの子に繋がるものが一つでもあった方がいいでしょ? これで会いに行く口実もできるし、いいこと尽くめじゃない」


 言いながら、凜はまたも胸がちくりと痛むのを感じたが、気づかない振りをした。

 昴は何か言いたげな顔をして凜の方を見つめていたが、やがて思い直したように尾瀬の方に向き直った。


「わかりました。その人形は、俺が預からせてもらいます」


 尾瀬は安心したように表情を緩めると、そっと昴の手にゼロを乗せた。手のひらに置かれた小さな人形を昴はじっと見つめた後、宝物を扱うかのような手つきで自分のシャツの胸ポケットにしまった。


「お時間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした」尾瀬が深々と頭を下げた。

「よろしければ、このままご自宅までお送り致しますが、どうなさいますか?」


「いや、さすがにそこまでしてもらうのは悪いですよ」昴が首を横に振った。

「それに俺、自分の足でもうちょっとこの街を歩きたいんで、せっかくだけど遠慮します」


「かしこまりました。では、凜様はいかがされますか?」


「あー、あたしは……」


 せっかくなので、この高級車にもうちょっと乗っていたい気もする。だが、凜が返事をするより早く昴が言った。


「あぁ、こいつも送ってもらわなくていいですよ。俺達、まだ大事な話が残ってるんで」


「は、何それ!? あたし聞いてないけど!」


 凜は抗議しようとしたが、尾瀬は全て理解しているといった顔で頷いた。


「それは失礼致しました。それでは、せめて外までお見送りさせて頂きます」


 尾瀬がそう言って車の外に視線をやると、まるでタイミングを待ち構えていたかのように運転手が扉を開けた。尾瀬が先に降り、凜と昴がその後に続く。快適だった車内から一歩外に出た途端、またしてもむわりとした熱気が凜達を包み込んだ。


「それでは、私はこれにて失礼致します。この度は、本当にお嬢様がお世話になりました」


 尾瀬はそう言って胸に手を当てると、腰を曲げて深々とお辞儀をした。洗練されたその優雅な動きを眺めながら、凜はふと、その一連の動作に見覚えがあることに気づいた。


「あの……尾瀬さん。俺、ちょっと思ったんですけど」


 不意に昴が言った。尾瀬が身体を起こし、不思議そうに昴の顔を見た。

 昴は何かを確かめるかのように尾瀬の顔をじっと見つめていたが、やがて言った。


「尾瀬さんはさっき、自分が零夢の力になれなかったって言いましたけど、そんなことないと思うんです。だってあなたは、俺が零夢と出会う前からあいつの傍にいて、ずっとあいつのことを見守ってきた。現実の世界だけじゃない。あいつが夢の中にいる間だって、あなたはずっとあいつのことを守ってきたんです。零夢もそれに気づいてたから、この人形をあなたに預けようとした。この人形と同じくらい、あなたのことを、大事に思っていたから……」


 尾瀬はその物静かな瞳をわずかに見開くと、まじまじと昴の顔を見つめた。昴も真顔でその顔を見返す。


 そうしてしばらく時間が経った。やがて尾瀬が不意に目を伏せた。


「もし……それが真実であるならば……」


 絞り出すようにそう口にすると、尾瀬は再び顔を上げた。まるで生まれたての赤ん坊を慈しむ母親のような表情になると、言った。


「この上ない……喜びでこざいます……」


 この先起こるどんな苦しみにも屈しないような、幸福に満ちた微笑み。それを見た瞬間、凜はなぜ、自分が尾瀬の動作に見覚えがあったのかに気づいた。ゼロだ。零夢のあの屋敷で会った時、ゼロが自分や昴に向かってして見せたあの優雅なお辞儀は、今尾瀬がしたのと全く同じものだった。

 そして今、尾瀬の顔に浮かんでいるのは、零夢と別れる直前、ゼロが彼女に向けたあの微笑みと同じものだ。心を持たないはずの人形が、まるで一人の人間のように思えたあの微笑み――。


 だが今になって、凜はようやくその理由を知った。ゼロは、ただの人形などではなかった。現実の世界で、零夢を傍で支え続けた、この老執事の魂が宿った存在だったのだ。


 尾瀬は今一度凜達に向かってお辞儀をすると、車に乗り込み、窓越しに凜達の方を見つめながら駐車場を去って行った。

 遠ざかる銀色の車体を見つめながら、凜はゼロのことを思った。初めて会った時から不気味でしかなかった、銀色の仮面をつけた男。だけどその仮面の奥で、彼はずっと零夢のことを見守り続けていたのだろう。


 今しがた話をしたあの老執事と同じように、とても静かで、優しい目をして。

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