決別の証
炎天下の中で話すのも何だからということで、凜達は尾瀬に案内されて車の中で話をすることになった。銀色の細長い車体は見るからに高級車の体をしていて、男性の若い運転手が礼儀正しくドアを開けて凜達を車内へと案内してくれた。六人掛けの座席のある車内はとても広々としていて、黒い革張りの座席はホテルのソファーのようにふかふかだった。
尾瀬が凜も一緒に車に案内しようとした時、凜は最初辞退した。尾瀬は零夢の使いとして昴に会いに来たのであり、自分がそこに加わる理由はないと思ったからだ。
だが、尾瀬は凜のことも零夢から聞いていたようで、是非とも話に加わってほしいと言って聞かなかった。
それで今、こうして三人が車内で向かい合う格好で座っているというわけだ。一番後ろの座席に凜と昴が並んで座り、その前にある回転させた座席に尾瀬が腰かけている。運転手は気を利かせたのか、ドアの外に立ったまま話が終わるのを待っている。この暑い中で長袖の上着を着こんだ姿を見て、凜は彼が倒れてしまうのではないかと心配になった。
「それで……零夢は今、どうしてるんですか?」
昴がそう切り出したので、凜も運転手から尾瀬の方に視線を戻した。昴にちらりと視線をやると、その顔にはどこか切迫した表情が浮かんでいた。
「お嬢様は、今から二週間ほど前に退院されました」尾瀬は組み合わせた両手を膝の上に乗せ、落ち着いた調子で言った。
「今もまだ通院はされていますが、日常生活に特に支障はありません。学校にも、数日前からまた通われるようになりました」
「そう……ですか」
昴の表情を見て、凜は彼の言わんとするところを察した。退院したとか学校に行ったとか、昴が知りたいのはそういう外面的な事実ではない。尾瀬も昴の心境を察したのか、手早く話を進めた。
「お嬢様のことがご心配なのですね? あの弱々しかったお嬢様が、本当にお一人で元のような生活をお送りなさっているのかとご心配なのでしょう」
昴は固い表情で頷いた。尾瀬は膝の上の両手を何度か組み替えた後、目尻を少し下げて続けた。
「ご安心ください。お嬢様は少しずつ変わってきておられます。目を覚まされた直後こそ、あなた様のことを思って泣いておられることもありましたが、最近では落ち着いてきたご様子で、今の奥様や旦那様とも少しずつお話をされるようになっています。関係が円満になるまでにはまだ時間がかかるでしょうが、お嬢様はお嬢様なりに、折り合いをつけて生きていこうとなさっている……。私はそうお見受けしました」
「そうですか……」
呟いた台詞はさっきと同じでも、今や昴の顔にははっきりとした安堵が浮かんでいた。本当はずっと気になっていたのだろう。自分の手を離れたお姫様が、この現実の世界で無事に過ごせているのか、心に引っかかっていたのだろう。そんな昴の心境を凛は察しながらも、胸がちくりと痛むのを感じずにはいられなかった。
「それで、昴様に一つ、お願いしたいことがございまして……。あなた様に、受け取って頂きたいものがあるのです」
「俺に受け取ってほしいもの?」
昴が不可解そうに首を捻る。尾瀬は頷くと、背広の内側にそっと手を入れ、そこから大事そうに何かを取り出した。
それを一目見た途端、凜と昴は仰天して身体をのけ反らせた。彼の手の中にあったのは、目の前にいる老執事を小さくして、五十歳ほど若返らせたような、そっくりな格好をした人形だったのだ。
「ゼロ……」
凜は思わず呟いていた。尾瀬の広い両手にすっぽりと納まってしまうほどの、小さな人形。だけどそこにつけられた銀色の仮面や、燕尾服の裾から覗く白い手は紛れもなくゼロのものだった。
「この人形は、奥様……、今の奥様とは別の、お嬢様の実の御母上であるグレイス様が作られたものです」尾瀬が言った。
「お嬢様はこの人形をとても大事にしておいでで、片時も離さずに傍に置いていらっしゃいました。
ですが、退院されてからご様子が少し変わりまして。今までは肌身離さず身につけておられたのが、少しずつ、この人形を置いて外出する機会が見られるようになったのです。以前はこの人形が傍にないと、途端に不安なお顔をされたものですが、最近はそれも少なくなってきたようにお見受けしました。
そして昨日、私を部屋に呼び出されたお嬢様は、この人形を私に渡して、こう仰ったのです。しばらくの間、これを預かっていてほしいと……」
凜は昴と顔を見合せた。あの零夢が、いつでもゼロと一緒にいて、ゼロとの別れをあれほど惜しんでいた零夢が、自ら彼を手放した。それは俄かには信じがたいことだった。
「最初にそれをお嬢様からお聞きした時は、私もさすがに驚きを禁じ得ませんでした」尾瀬がゆるゆると頭を振った。
「お嬢様にとってこの人形がどれほど大切なものなのかは、屋敷の者なら誰もが存じ上げておりましたから……。ですが、その次にお嬢様が仰った言葉で、私も納得したのです。お嬢様はこんなことを仰っていました……」
『零夢、ずっと怖かった。ママもいない、夢も見られないこの世界で、一人ぼっちで生きていくのが、とっても怖かったの。
でもね、みんなが教えてくれた。零夢は一人じゃないんだってこと。みんなこの世界のどこかにいて、いっぱい考えたり悩んだりしながら生きてる。だから零夢もおんなじように、頑張って生きてみようって思ったんだ。
だからね、零夢が夢に頼らなくても生きられるようになるまで、ゼロには零夢のこと、見守っててほしいんだ。近くにいたら、どうしてもママがいた時のこと思い出して、また甘えちゃいそうな気がするから……』
尾瀬の口から語られる零夢の言葉。彼女が実際にそれを口にした場面を凜は想像してみた。
あの薄紅色の部屋の中で、尾瀬に向かってゼロを差し出す零夢。戸惑いを浮かべながらもそれを受け取る尾瀬。その目に映るのは、あのいつも泣きじゃくっていた弱々しいお姫様ではない。迷いや不安を抱えながらも、懸命に現実を生きていこうとする一人の少女の姿だった。
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