遣いの者

 あれから約一か月が経った。リハビリのために入院している間、凜が自分を訪ねてくることはなかった。当然だろう。そもそも凜は自分がここに入院していたことを知らないし、たとえ知っていたとしても、自分から会いに来てくれるとは考えにくかった。


 夢遊界にいた時は自分のことを想ってくれていたとしても、いざ現実に戻ると気持ちが変わってしまうこともあるだろう。何しろすぐ近くに鷹がいるのだ。人気者の鷹とはみ出し者の自分、どちらか一人を選べと言われたら、ほとんどの女の子が鷹の方を選ぶだろう。

 そもそも凜は鷹のことが好きだったのだ。一時は自分の方が近くにいたとはいえ、現実に戻って鷹と同じ土俵に立った今、自分に分があるとは昴には思えなかった。


 その時、不意に病院の駐車場を人影が横切ったのが見えた。昴は顔を上げ、無意識のうちにその人物を目で追った。人影はすぐに車に隠れて見えなくなったが、色の抜けた長い髪をしたその姿には見覚えがあった。


(……凜?)


 意識すると同時に昴は走り出していた。一瞬しか見えなかったが、あの姿は見間違えるはずがない。何しろこの一か月の間、ずっと彼女のことを考えていたのだから――。


 だが、昴が車のところまで行った時には、すでに凜の姿はそこにはなかった。辺りを見回し、近くの車の間を縫うようにして探したがどこにも凜は見当たらない。

 昴ははぁはぁと肩で息をしながら、落胆した顔で大きくため息をついた。やはり見間違いだったのだろうか。暑さのために意識が朦朧として、幻を見ていたのかもしれない。


「誰探してんの?」


 不意に後ろからそう声をかけられ、昴ははっとして振り返った。今しがた、自分が求めていた人物の姿がそこにあった。


「凜!」


 色の抜けた長い髪に吊り上がり気味の目、水色の生地に黄色の花柄をあしらったワンピース。初めて夢遊界で会った時と何ら変わりない凜の姿がそこにあった。両手を腰に当て、なぜか得意げな顔をしている。


「今まで散々あんたに振り回されてきたんだから、一回ぐらい仕返ししてやってもいいかと思って、わざとあんたの前通ってから車の影に隠れてたの。あんた、すっごい必死になってあたしのこと探して、いないってわかったらこの世の終わりみたいな顔して。端から見てたら超おかしかった!」


 凜がそう言ってくすくすと笑った。それでは、さっき見た凜の姿は幻ではなかったようだ。誰かを翻弄することはあっても、翻弄されることに慣れていない昴は、ただ呆然として凜を見つめるほかなかった。


「……でもさ、ちょっと嬉しかった。夢遊界で会ってからもう一か月も経っちゃたし、どうせあんたのことだから、すぐまた他の女の子に目移りしてるんじゃないかって、ちょっと心配だったんだけど……。ちゃんとあたしのこと、覚えててくれたんだって……」


 昴は凜の顔を見返した。凜は昴から視線を逸らし、手を身体の後ろに回して、気恥ずかしそうに口をもごもごとさせている。

 そんな凜の姿がいじらしくて、昴はふっと口元を緩めると、凛の方に一歩距離を詰め、そっと片手で頬に触れると言った。


「……忘れるはずがない。この世界に戻ってきてからずっと、君のことを忘れたことなんかなかった。むしろ心配してたのは俺の方だ。俺がいない間に、君の心がまた鷹の方に戻っちまったんじゃないかと思って……。でも、こうして会いに来てくれたってことは、もうその心配はないんだな?」


 昴が凜の目を覗き込みながら尋ねる。凜は少し身を引いたが、昴から視線を逸らすことはせず、こっくりと頷いた。


「……そっか。これで俺も、帰ってきた甲斐があったってもんだな」


 昴はそう言って頬にかかった凜の髪を梳くと、そっとその顔に自分の顔を近づけていった。凜が表情を強張らせたが、それでも顔を逸らそうとはしなかった。


「あの、失礼ですが……柏木昴様でいらっしゃいますか?」


 ここが病院の駐車場だということを完全に忘れていた二人は、急に後ろから声をかけられ、慌てて互いから身を離した。

 動揺したままの顔で振り返ると、殺風景な駐車場には似つかわしくない格好をした男がそこにいた。ほっそりとした身体を包む黒づくめの燕尾服に、胸に添えられた手にはめられた白い手袋。それは零夢の傍にいたあの男の格好とよく似ていた。

 だが、もちろん目の前の男は仮面などつけていないし、袖口から見える手は紛れもなく人間のものだ。そこにあったのは、灰色の髪をオールバックにして、綺麗に刈り揃えた髭を生やし、皺の刻まれた目元で静かに昴を見つめる老執事の姿だった。


「あ、えーと、そうですけど……。あの、あなたは?」


 昴がまだうろたえながら尋ねた。老執事は恭しく胸に手を当てると、きっちりと腰を折りながらお辞儀をした。


「突然お声がけしてしまい、大変失礼致しました。私、フローレス様のお屋敷で執事長を仰せつかっております、尾瀬おぜと申します」


 そう名乗られても、昴にはまるでぴんと来なかった。フローレスという外国人の苗字にも、尾瀬という執事の名前にも覚えはない。

 昴の困惑を見て取ったのか、尾瀬が穏やかに口を開いた。


「ご存知ないのも無理はありません。昴様の御一家には、私どものことは何一つ知らされていなかったのですから。

 ですが、お嬢様からあなた様のお話を聞き、私どもも考えを改めましてね。お嬢様が大変な恩義を感じておられるあなた様に対して、いつまでも失礼な態度を取り続けることはできません。それで一度ご挨拶にと考え、私がこうして参上した次第でございます」


 昴はまだ要領を得ない顔をしていたが、不意に何かに気づいてはっとした顔になった。尾瀬の方に身を乗り出して尋ねる。


「ちょっと待ってくれ。そのお嬢様っていうのは、もしかして……」


 そこで凜もようやく気づいたのだろう。隣で息を呑む音が聞こえた。

 尾瀬はその静かな目でじっと昴を見つめると、ゆっくりと頷いて言った。


「ええ……フローレス家の御令嬢、零夢様のことでございます」

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