第二十話 夢の終わりの先に

目覚めと和解

 病院の自動ドアを一歩潜った途端、湿気を孕んだむわりとした暑気がたちまち顔に振りかかり、昴は思わず顔をしかめた。

 七月下旬の昼下がり。たぶん去年も今と同じくらい暑かったのだろうが、気温など関係のない快適な空間に長くいたからか、去年よりもその暑さはずっと身体に応えた。こんな蒸し風呂みたいな場所でまた生活していかなくちゃいけないのか。昴はのっけから気が重くなってきた。


 入口の階段を降りたところで立ち止まり、改めて自分が出てきた病院を見上げる。「桜場医院」という看板を掲げた大きな総合病院。自分はここで約半年の間眠り続けていたと、仲良くなった看護婦さんが教えてくれた。それほど長い間昏睡状態にありながらも目を覚まし、しかも身体の機能にほとんど異常がないというのだから、病院関係者の間では奇跡の生還物語としてかなり話題になったらしい。


(……あいつらも、無事に帰ってこれたのかな)


 夢遊界で出会った数々の人達を思う。子どもも大人も、男も女も、最初にあの広場で出会った時は誰もが一様に不安な表情を浮かべていた。ある者は困惑し、ある者は元の世界に戻せと怒り出し、ある者は怯えて泣き出した。

 だが、そんな彼らも夢遊界での時間を過ごすうちに次第に順応して、夢遊界での生活を受け入れていった。

 彼らの表情はとても穏やかで、何者にも縛られない夢遊界での生活に満足しているように思えた。だから昴も、夢遊界こそが、自分が求めていたもう一つの世界だと信じて疑わなかったのだ。――彼女に、出会うまでは。


 葉月凜は、昴が夢遊界で出会った最後の住人だった。

 いつも攻撃的な眼つきをして、だけどその姿勢は常に防御的で、他の住人のように夢遊界での生活に順応していくことが全くなかった。だから正直、最初は可愛くない女だと思っていた。せっかくこんなに理想的な世界に来れたっていうのに、いったい何が不満なんだ、と。


 だけど、凜と過ごすうちに、昴はいつしか自分の心が変わってきていることに気づいていた。夢遊界を理想的な世界だと思っていたのが、所詮はただの夢でしかないという事実を突きつけられ、結局自分達は現実を生きるしかないのだと思い知らされた。

 でも、その時はまだそれだけだった。凜の存在を意識しながらも、彼女を追って現実に戻ることまではできなかった。


 しかしその後、凜は予想外の行動に出た。自らの意思で夢遊界に戻ってきたのだ。

 あれほど現実に戻ることを渇望していた凜が、そう時間が経たないうちに再び夢遊界に戻ってきた。しかもその理由は、自分に会いに来るためだったと言う。その時は本気にしていなかったものの、それでも昴は感じたのだ。凜の中に秘められた固い決意を。

 自分一人が現実に戻るだけでは意味がない。未だ夢遊界に留まり続けている多くの人々、その人達を残したままでは、凜はずっと彼らの存在を引き摺りながら生きていくことになる。たとえ夢の中で会った存在に過ぎないとしても、凜には彼らのことを見過ごすことなどできなかった。それが凜という人間であり、そんな彼女の頑ななほどまっすぐな姿に、昴もまた強く惹かれたのだった。


(……さて、これからどうしたもんかな。鷹の話じゃあ、あいつはとっくに退院してるってことだったし、どうやって会いに行く口実を見つけたもんか……)


 凜のことを昴に教えてくれたのは鷹だった。昴が目を覚ましたその日のことだ。誰もいない病室の中で、白い天井をぼんやりと見つめていた昴の耳に、ドアが控え目にスライドする音が聞こえてきた。その時入ってきたのが鷹だったのだ。

 鷹は最初消沈した顔をしていたのだが、昴が起きているのを見るとぎょっとした顔をしてのけぞった。そんな兄の顔を眺めながら、昴はよう、と片手を気軽に挨拶をしてみたのだが、鷹は幽霊でも見るような顔でまじまじと昴を見つめているだけだった。


『何だよ、そんなに見つめられたら照れるだろ? ……なんて、男に、まして実の兄貴に使う台詞じゃないよな』


 昴が茶化すように言ったが、鷹は相変わらずじっと昴を見つめたままだった。その顔はひどく張り詰めていた。もちろん驚いてはいるのだろうが、それ以上に怒っているのかもしれない。

 昴は小さく肩を竦めて見せると、自嘲するように言った。


『ま、感動の再会ってわけにもいかないか。今まで散々好き放題やってきて、兄貴にも迷惑かけ通しだったんだからさ。でもよう、せっかくこうして俺が目を覚ましたんだぜ? もうちょっとこう、嬉しそうな顔してくれてもいいんじゃねぇか?』


 昴はそう言ってちらりと鷹の顔を見やったが、鷹は顔を強張らせたままだった。しかしやがて落ち着きを取り戻したのか、一つ息をつくと、ゆっくりと昴のベッドに向かって歩いてきた。殴られるかもしれないと思って昴は咄嗟に身構える。

 だが、鷹はベッドの傍まで来た途端、くずおれるように床に膝を突くと、ベッドに顔を埋め、絞り出すように言った。


『昴……ごめんな……。俺のせいで……こんな目に遭わせちまって……』


 拳を固く握り締め、声を震わせながらそう言った兄の姿を、昴は呆気に取られて見つめた。どうして鷹がいきなり謝り出したのか、昴にはさっぱりわからなかった。むしろ謝らなければならないのは自分の方だ。だけど、ひたすら謝り続ける鷹を前にしては下手に声をかけることもできず、ようやく一区切りついたところで昴は苦笑しながら言った。


『兄貴、どうしたんだよ? いきなりそんな謝り倒してさ。俺、ぶん殴られてもしょうがないと思ってたんぜ。こんなに長い間眠ったままで、どれだけ心配かけりゃ気が済むんだこのバカ弟はってな』


 鷹がようやく顔を上げた。突っ伏した間に泣いていたようで、その目は赤く泣き腫らしていた。そんな鷹の顔を見たのは初めてで、昴は笑みを引っ込めて鷹の顔を凝視した。いつでも爽やかな笑みを浮かべ、会えば誰にでも好感を持たれる、完璧な兄の面影はそこにはなかった。


『……そりゃ、心配はしたさ』

 

 やがて鷹がぽつりと言った。目尻に残った涙を手で拭い、神妙な顔で昴を見る。


『半年も眠ってたんだ。このまま二度と目を覚まさなかったとしても不思議じゃない。

 でも俺は、お前のことを待っていたかった。もう一度お前に会って、話したいことがたくさんあった。それで謝りたかった。お前を問題児だって決めつけて、ろくに話もしようとしなかったこととか、あの中学生の子のことで、お前を信じてやれなかったこととか……。ずっと、後悔してたからさ……』


 懺悔でもするような表情でそう語る鷹を、昴は意外そうに見つめていたが、やがてぷっと吹き出すと、げらげらと声を上げて笑い始めた。今度は鷹が呆気に取られて昴を見つめる番だった。


 昴は苦しそうにひいひいと笑いを漏らしていたが、少しずつ落ち着きを取り戻していくと、目尻に溜まった涙を拭いながら言った。


『全く兄貴は真面目だよな。そうやってずっと罪悪感抱えながらこの半年間生きてきたってわけか? ったく、世渡り上手に見えて、変なとこ融通効かないんだな』


 鷹が無言で顔をしかめる。昴はようやく笑みを引っ込め、真面目な顔を作って続けた。


『あのな、兄貴。お前は俺が意識不明になったのは自分のせいだって思ってるかもしれないけど、実際のとこ、全然関係ないんだよ。俺はただ……そう、長い夢を見たかったんだ。あの女の子と一緒にな。だからさ、そんな風に責任感じて謝ってもらう必要なんかねぇの。俺は俺でこの半年楽しくやってたんだからさ、何も気にしちゃいねぇよ』

  

『……そうなのか?』


 鷹が呆気に取られた様子で口を半開きにする。そんな間の抜けた兄の顔が可笑しくて、昴はまたくっくと笑った。


『ああ、過去のことなんてもうどうだっていいよ。それより大事なのは今だ。せっかくこうして目を覚ませたんだから、まずは可愛い看護婦さんとお近づきになるとこから始めないとな』


 昔と変わらない昴の軽口。それを聞いてようやく信じる気持ちになったのか、鷹が安堵したように表情を綻ばせる。そんな兄の表情を横目で見やりながら、昴は何気ない調子で彼女のことを尋ねたのだった。

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