会いたい人は

 鷹が告げたその言葉を、凜が呑み込むのに随分時間がかかった。意味はわかっても、それが自分に向けられたものであることがすぐには腑に落ちなかったのだ。

 だって相手はあの鷹だ。顔も性格もよくて、先輩にも後輩にも、もちろん同級生からも人気があるあの鷹だ。そんな鷹が、ただ中学が同じだという共通点があるだけで、取り立てるほどの魅力もない自分に向かって告白しているのだ。

 凜にはそれが信じられなかった。アイドルのサイン会に並んでいたら、いきなり向こうから握手を求められたファンのような気分だった。


 そんな凜の困惑を知ってか知らずか、鷹が付け加えるように言った。


「前に言ったことがあったよな。中学の時から好きだった女の子がいるって。それ、お前のことだよ、葉月」


「え……でも、何で?」


 そう返すのが凜には精一杯だった。自分のどこに鷹から好かれる要素があったのか、本気でわからなかった。


「葉月ってさ、昔からこう、周りに流されないとこがあっただろ」鷹は気恥ずかしそうに頬を搔いて話し始めた。


「自分が一度決めたことは絶対に曲げないっていうかさ。俺みたいに周りの目ばっか気にしてる人間からしたら、お前のそういうとこ、すごいなって思ってさ。それで気になって見てたら、いつの間にか……って感じかな」


 凜は目を瞬かせて鷹の顔を見返した。鷹の話が意外過ぎて、すぐには理解が追いつかなかったのだ。自分が周りに流されないとか、鷹が周りの目ばかり気にしているとか、そんなこと、今まで考えたこともなかった。


「……俺、今までずっと外面ばっか気にして生きてた。これをしたら変に思われるんじゃないかとか、格好悪いんじゃないかとか、そんなことばっか気にしてた。でも、これからはもう止めようと思うんだ。俺もお前みたいに、自分の気持ちに正直になりたい。人からどう思われるかじゃなくて、自分がどうしたいかを考えて生きていきたい。

 だから、もしこれからお前に何か困ったことがあったとしても、今度は絶対助けてやりたいって思ってるんだ。だからさ……葉月」


 遠い目をして話していた鷹だったが、そこで今一度凜の方に向き直った。そのまま静かに凜の方に歩み寄り、そっと尋ねた。


「俺と付き合ってくれないか?」











 そよそよとした風が、凜の髪をさらりと揺らした。賑やかだった生徒達の声はいつの間にか消え、凜達の周りはひっそりとした静けさに包まれている。


 凜は鷹の目を見返した。その視線はまっすぐに凜の方に注がれ、凜の返事をじっと待っている。

 そんな風に鷹に見つめられると次第に胸が高鳴っていくのを感じて、凜は顔を赤くして鷹から視線を逸らした。自分がずっと想いを寄せていた人からのまさかの告白、未だに信じられないが、もしこれが現実であるならば、返事など、迷うはずもない。凜はぱっと顔を上げると、すぐに返事をしようと口を開いた。


 だが、そこで再び鷹の顔を目にした途端、凜の脳裏に別の人物の顔が浮かんだ。鷹と全く同じ顔をしていて、だけど鷹とは違うあの男。その顔が頭に浮かんだ途端、凜は今まさに口から出ようとしていた言葉を呑み込んだ。


(なんで……? なんでこのタイミングで、あいつの顔が浮かぶの……?)


 不可解だった。自分はずっと鷹のことが好きで、こうして鷹と向かい合っている今も、その気持ちは変わらないはずなのに、どうして返事ができずにいるのだろう。


 凜は必死に言葉を探した。ありがとう、あたしもずっと鷹のことが好きだったから、そう言ってもらえてすごく嬉しい。そういえば済む話なのに、なぜかどうしても、それを口にすることができずにいた。


 何度も口をぱくぱくさせる凜の様子を鷹はじっと見つめていたが、やがて諦めたような表情になると、ふっと息を漏らして言った。


「……やっぱり、あいつのことが気になるのか?」


 凜は動きを止め、虚を突かれた顔をして鷹の顔を見上げた。その表情から何かを悟ったのだろう、鷹は失敗をごまかそうとするような笑みを浮かべて言った。


「……正直、お前にあいつのこと話した時から、こうなる気はしてたんだけどさ。でもまさか本当にそうなっちまうとはな。こんなことなら、もっと悪いイメージ植え付けときゃよかったな」


「え、何? 何の話?」


 凜はうろたえながら尋ねた。鷹が誰のことを言っているのか、本当はわかっているはずだった。それでも尋ねたのは、自分でも認められずにいたからだ。あの男の存在が、自分の中で、いつの間にか鷹よりも大きくなってしまっていたことを。


 鷹は凜の質問には答えず、ズボンのポケットをごそごそと漁り、そこから折りたたんだ白いメモを出して凜の方に差し出した。

 凜は怪訝な顔をしてそれを受け取ると、開いて中に書いてあるものを見た。黒いボールペンで、凜の知らない住所が書かれている。


「それ、あいつの入院している病院の住所だよ。お前が目を覚ましたのと同じ日にあいつも目覚ましてさ。ただあいつの場合、眠ってる期間が長かったからリハビリとかいろいろあって、明日、やっと退院できることになったんだよ」


「明日……」


 メモに書かれた住所に視線を落としながら凜が呟いた。そんな凜の表情を見て、鷹は再びふっと息を漏らすと、言った。


「……会いに行ってやれよ。あいつもきっと、お前のこと、待ってるからさ」


 凜ははっと息を呑んで顔を上げた。鷹は眉を下げ、少し残念そうな、それでいて何とか自分を説得しようとするような、そんな笑みを浮かべて凜を見つめていた。

 凜はその顔をじっと見返しながら、何度か瞬きを繰り返した。だが、やがて目を伏せると、小さく頷いて言った。


「……ごめん、ありがとう」


 それだけ呟くと、凜は足早に鷹の脇を通り過ぎようとした。すれ違う直前、凜の長い髪が再びふわりと風に揺れて舞い上がる。

 その仄かな香りが鼻をかすめた時、鷹は意識するよりも早く凜を呼び止めていた。


「葉月」


 凜が立ち止まった。そのまっすぐな長い髪を見つめながら、鷹は言った。


「葉月、お前は何もない人間なんかじゃないよ。お前はちゃんとお前にしかないもの持ってて、それがあるから俺も、お前のこと好きになったんだよ。

 だから……その、自分には何にもないとか、そういう自分を否定するようなこと……もう言うなよ」


 凜は振り返らなかった。肩に掛けた鞄に片手を添え、じっと足元に視線を落としている。鷹は祈るような思いでその背中を見つめた。


 そうしてしばらく時間が経った後、やがて凜がゆっくりと振り返った。どんな顔をすればいいのか決めかねている、そんな迷いが見て取れた。

 だが、それも数秒のことで、やがて凜は鷹の方に視線を向けると、照れたように笑って言った。


「……ありがとう」


 それは、凜が初めて鷹に見せた表情だった。いつもの仏頂面でもない、友達とお喋りをしている時の楽しげな顔でもない、まるで足元に四葉のクローバーが咲いていることに気づいた人が、そっと屈みこんでそれを取り上げるような、そんな静かな幸福感に満たされた表情だった。

 鷹は凜の表情に見惚れていたが、凜は気恥ずかしくなったのか、すぐに視線を逸らすと、今度こそ校門に向かって走って行った。


「……今回はお前に譲ってやるけど、俺もこのまま引き下がるつもりはないからな」


 遠ざかっていく凜の背中を見つめながら、鷹は誰に言うとでもなく呟いた。


「せっかく周りの目を気にしないで生きようって決めたんだ。これからはずっとあいつの近くにいて、どんどんアプローチしてやるんだ。何しろこっちは同じ学校に通ってるんだからな。お前があいつと一緒にいた分の遅れなんて、すぐに取り返してやるさ」


 鷹はそう独り言ちると、天を仰ぎ、ふっと口元を緩めて笑った。それは、鷹が自らを覆っていた殻を脱ぎ捨て、むき出しの一人の人間として生きていくことを決めた瞬間でもあった。

 頭上に広がる蒼天は、そんな鷹の門出を祝福しているかのように見えた。

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