触れた温もりは
尾瀬と別れて病院を後にし、凜達は自分達の家に向かって歩いていた。
通い慣れたいつもの道、いつもの街。だけど、そこを昴と並んで歩いているという事実が、何だかとても不思議に感じられた。
やがて二人は歩道橋に差し掛かった。階段を上り、橋の真ん中まで来たところでどちらからともなく立ち止まり、街を眺める。何台もの車が下の道路を過ぎ去り、様々な年代の人が歩道を行き交っていく。自分達が育ってきた街。この先もずっと、生きていく街。
「なんか……不思議だよね」
手すりに腕を置いた格好で凜が呟いた。昴が無言のまま凜の方を見る。
「あたし達は学校も違うし、夢遊界に行かなかったら出会わなかったわけじゃん? そんなあんたと一緒にこの街を歩いてるのが、何て言うか……すごい変な感じがしてさ」
「……そうだよな」
昴が神妙に頷いた。手すりに片手を乗せ、凜と並んで眼下の光景を眺める。
「夢遊界にいた頃は、夢が覚めたら全部終わりなんだって思ってた。ここで出会った奴らのことも、いろんなことをしてきた記憶も、みんな忘れちまうんだろうって。
でも、今になってわかった。夢が終わっても、夢がなくなってしまうわけじゃない。夢遊界で過ごした日々の記憶は、俺の中にずっと残り続けてる。そうじゃなかったら、俺が今、こうして君と一緒にいることもできないはずだ」
「あ、それ……あの声が言ってたのと一緒だ」
「声?」昴が首を傾げて凜の方を見た。
「うん。夢遊界から現実に戻る直前に不思議な声が聞こえてきて、その声が言ったんだ。夢はあたし達の心の中に、永遠にあり続けるものだって」
昴が目を見開いて凜の顔を見つめてきた。そこに浮かんだ驚きの色を見て、凜は昴の考えていることを察した。
「え、何、もしかして、あんたもあの声を聞いたの?」
「ああ……女性の声だった。君が聴いたのもそうだったのか?」
「うん……。あたし、あの声を聞いた時、なぜか零夢のお母さんがそこにいる気がしたんだよね。でも変だよね、あたし、あの子のお母さんに会ったこともないのにさ」
「……もしかしたらグレイスは、俺達に伝えようとしたのかもしれないな。厳しい現実に向き合うための強さを、夢が与えてくれることもあるってことを。夢を否定しなくてもいい。夢の力を借りて、一緒に生きる道もあるんだってことをさ」
「……そうかもね」
零夢とよく似た、銀髪と碧眼を持った美しい女性。終わりゆく夢遊界の中で、彼女は微笑んでいたように見えた。娘を始め、夢の中で見守り続けてきた多くの人々が、あるべき場所に帰ることを祝福しているかのように。
彼女は伝えたかったのだろう。夢遊界は、現実の代わりになるもう一つの世界ではないけれど、そこで過ごした日々の記憶は、この現実の世界を生き抜くための強さを与えてくれたるのだと。そう考えると、夢遊界という世界は、現実に疲れた人の心を癒やし、再び立ち上がる力をつけるまでの間、彼らを守るために生まれた楽園だったのではないかと凜には思えてきた。
「ところでさ、凜、何か大事なことを忘れてるんじゃないか?」
昴が改まった口調で言った。凜がきょとんして昴の顔を見返す。凜が本当に思い出せない様子でいるのを見て、昴は困惑したように頭を搔いた。
「まったく、忘れちまったのか? 俺達が夢遊界から現実に戻る直前、君は史也や瑠名には心のこもったメッセージを送ってくれたってのに、俺には何にもなかったじゃないか。だから現実の世界で君に再会した時、とうとう俺も君からの熱いメッセージを聞かせてもらえるんだと思ってワクワクしてたんだぜ」
そこまで言われてようやく思い出したのか、凜の顔がたちまち真っ赤になった。忙しなく両手を動かしながら反論する。
「あれは……ほら、史也と瑠名が不安そうにしてたから……! せっかく現実に戻って頑張ろうって思えてたのに、最初からその気持ちを挫けさせたくなかったから……!」
「まぁまぁ、それはそれでいいよ。でもさ、実際のとこ、君も俺に伝えたいことがあったから、はるばる俺に会いに来てくれたんじゃないのか?」
窘めるようにそう言われ、凜はむっつりとして黙り込んだ。昴の言葉を認めるのは癪だったが、ここで意地を張っていても仕方がない。
凜は軽く息をつき、何度か肩を上下させると、改めて昴の顔を見つめて言った。
「……あたし、ずっとあんたに会いたいと思ってた。夢遊界じゃなくて、この現実の世界で、あんたと一緒に生きたいって思ってた」
凜はそこで一旦言葉を切った。昴は凜の顔を見つめ、黙って次の言葉を待っている。
凜は少し考えた後、苦笑したようにふっと息を漏らした。
「こっちの世界に戻ってきても、あんたは全然変わってなかったね。相変わらずキザで女好きで、何でこんな奴のこと呼び戻しに夢遊界まで行ってんだろうって、今からしたら不思議……」
「おいおい、それが今から告白しようとする相手に向かっていう台詞か?」
昴が呆れ顔になる。だけど凜は取り合わずに続けた。
「……でもさ、さっきあんたと一緒に零夢の話聞いた時、あんたが零夢のこと気にするたびにこう、胸がちくちくするのを感じたんだ。あんたが夢遊界にいた時からそうだった。あんたが零夢と一緒にいるとこ想像するだけで、気持ちがもやもやして……。何でだろうってずっと不思議だったたんだけど、今やっとわかった。あたし、零夢に嫉妬してたんだね……」
凜はそこで一旦目を伏せたが、すぐに昴の方を見上げて続けた。
「本当はさ、もっとあたしのことも見てほしかった。零夢だけじゃなくて、あたしのことも気にかけてほしかった。だからさっき、尾瀬さんがあんたにゼロを渡すって言った時、あたし、本当は嫌だったんだよ。ゼロがあんたの手元にあったら、あんたはこの世界でもずっと零夢のことを気にし続ける。あたしが隣にいたって、頭のどこかできっとあの子のこと考える。それが嫌だったの!」
そこまで一気に言ったところで凜ははぁはぁと荒い息をついた。昴は呆気に取られた様子で凜を見返し、やがて言った。
「でも……俺にゼロを受け取れって言ったのは君なんだぜ。そんなに嫌だったんなら、君が受け取ればよかったじゃないか」
「……そんなこと、できるわけないでしょ。零夢がずっと大事にしてきたものを、あたしなんかが軽々しく受け取れるわけない。尾瀬さんだって、最初からあんたに渡すつもりで病院まで来たんだろうし……。だからあんたがゼロを受け取るのは当然で……当然だってのはわかるんけど……やっぱり、どっかで嫌だっていう気持ちもあって……!」
頭の中がぐちゃぐちゃになってきて、凜は苛立ったように両手で髪を搔きむしった。まったく最悪だ。こんなんじゃ、自分の言いたいことの半分も伝えられない。どうしてあたしは昴の前だと、いつも素直になれないのだろう。
頭を抱えて身悶えている凜の姿を昴はじっと見つめていたが、やがてふっと笑みを漏らすと、静かに凜の方に近づいていき、両手でそっと肩に触れた。凜の身体の震えが止まり、両手を下ろして昴を見上げる。
「……悪かったな、凜」
「……何であんたが謝んのよ」
「零夢のことで、君がそんなに気を揉んでたなんて知らなかったからさ。俺が誰と一緒にいようと、君は全然気にしないタイプなのかと思ってたから」
「はぁ!? そんなわけないでしょ! あたしがどんだけあんたのこと気にしてたと思って……!」
言い過ぎたことに気づいたのか、凜が顔を真っ赤にして慌てて口を噤む。昴は面白がるように笑ったが、すぐに真面目な顔になると言った。
「でも、誤解しないでほしいんだよ。俺にとって零夢は、恋愛対象とかそういうんじゃなくて……そうだな、今まさに巣から飛び立とうとしてる雛みたいな存在で、俺は父親として、あの子が無事に巣立っていくのを見届けようとしてるんだよ」
「何それ? しかも父親? 兄じゃなくて?」
「そう、父親。大事な娘が外の世界に飛び立とうとしてるんだ。どうしたって気にしないわけにはいかないだろ?」
飄々とそう言ってのけた昴の顔を眺めながら、凜は苦笑して肩を竦めた。まったく、どうしたってこの男には敵わないみたいだ。
「じゃあ……信じていいのね? あんたにとっての一番は……その、恋愛対象としてってことだけど、あたしだって……」
凜がちらりと昴を見上げる。強がっていながらも、不安を感じさせる眼差し。そんな凜の顔を昴は愛おしそうに眺め、それから安心させるように微笑えんだ。
「当たり前だ。君は俺の目を覚まさせてくれた、たった一人の女の子なんだ。代わりなんて、いるわけないだろ?」
凜は昴の顔を見返した。瞳から不安の色が消え、顔全体に安堵が広がっていく。
昴はもう一度微笑むと、そっと凜の身体を抱き締めた。歩道橋に通行人はなく、車も、人も、全てが動きを止めたように静まり返っている。
「ねぇ……これ、本当に現実なんだよね……?」
昴の胸に顔を埋めながら、凜が震える声で呟いた。
「なんか……いろんなことが上手く行き過ぎてて……ひょっとしたらあたし、まだ夢の中にいるんじゃないかと思って……」
幸福を噛みしめた凜の表情。だけど、そこにわずかに残された不安の翳りを見て、昴は思わず苦笑した。気が強いように見えて、変なところで自信がない。
「じゃ、試してみるか?」
悪戯っ子のような表情で昴は言うと、凜の身体を離して彼女と向かい合った。そのまましばらく見つめ合った後、静かに凜の方に顔を近づけていく。
凜はまたしても表情を強張らせたが、決して顔を逸らそうとしはしなかった。
昴の体温を、匂いを、そして触れる唇の感触を感じながら、凜は静かに目を閉じた。
それは夢でも幻でもない。この現実の世界に存在する、確かな人の温もりだった。
[夢幻の楽園 了]
*本編は終了。この後で後日談を公開します。本編執筆から約2年後に書いたもので、1話10000万字以内の短編集です。更新は不定期になる予定です。よろしければ後日談にもお付き合いください!
2024.12.18 小原瑞樹
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます