ただいま
凜は全速力で走っていた。自分がどこに向かっているかもわからないまま、何かから逃れるように、ひたすら走り続けていた。
そうしてがむしゃらに走り続け、ついに体力の限界というまで来たところで凜はようやく立ち止まった。膝に手を突き、はぁはぁと息をつく。体育の授業でもこんなに息が上がったことはない。荒い呼吸を繰り返しながら、凜は自分が今いる場所を確かめようと顔を上げた。
それは見覚えのある場所だった。だだっ広い床に敷き詰められた白と赤茶色のタイルと、その中央にぽつんと佇む噴水。一見すると公園のようで、その実遊具もベンチも、木の一本すらもない無人の広場。初めて夢遊界に来た時、昴と出会った場所だ。あの時、この噴水に映し出された現実での光景を見て、凜は自分の身に何が起こったのかを理解したのだった。
凜はじっとその噴水を見つめた。現実に戻る方法は昴から訊いてこなかったが、自分が夢遊界に来た時にここにいたことを考えれば、この広場が現実と繋がっていることは間違いなさそうだ。
凜はゆっくりと噴水の方に近づいていき、やがて目の前まで来たところでそっと目を閉じた。両の手を胸の前で握り合わせ、心の中で強く唱える。
(この世界での、最後のあたしの願い……。あたしは現実に戻りたい。現実に戻って、もう一度侑李や鷹に、お母さんに会いたい!)
胸の内で願いを捧げながら、凜はゆっくりと噴水の中へと入って行った。全身に水を被っているはずなのに、そこに冷たい感覚はない。涼しげな水飛沫の音だけが、凜を引き留めようとするかのように耳の奥で鳴り響いている。
どのくらいそうしていただろう。突然水の音がぷつりと聞こえなくなった。
凜は慌てて目を開けようとしたが、今度は接着剤をつけたみたいに瞼が開かない。聴覚に続いて視覚までもを遮断され、途端に不安がせり上がってくる。あたしの身に何が起こってるんだろう? このまま現実に戻れず、全ての感覚を失ってしまったら?
不安を振り切るように凜は身体を動かそうとしたが、そこに自分の身体があるという感覚さえもいつの間にかなくなっていた。自分という存在が闇の中に溶け、この世界から消えてなくなってしまったかのようだった。
そのうちに次第に意識までもが遠ざかっていって、凜は自分が深い闇の底へと落ちていくのを感じた。
瞼の向こうに広がる真っ暗な世界。それが不意に明るくなった気配がして、凜はその光景を確かめようと目を開こうとした。だが、瞼は相変わらずぴったりと貼りついていて、なかなか言うことを聞いてくれない。諦めずに何度も目に力を込め、ようやくうっすらと瞼が開き始めた。
ぼんやりとした視界の中、凜の目に映ったのは白の光景だった。物も、人の姿も見えず、ただおぼろげな白が辺りに漂っているだけ。その光景は夢の続きのようで、凜は自分がまだ夢から覚めていないのかと思った。
だけど――凜はそこで違和感に気づいた。背中に広がるこの固い感触。それは夢を見ていた時には味わえなかったものだ。背中だけではない。身体の上にかけられた薄くて柔らかいものの感覚、頭の下にあるふかふかとしたものの感覚、握った手のひらを爪が擦る感覚。そんな風に身体に触れるもの全てを凜は感じることができた。
凜がぼんやりとその感覚の嵐に身を任せていると、不意に横からちゅんちゅんと小鳥の囀りが聞こえてきた。
顔を向けると、白の空間の中に別の色が浮かび上がっている。何度か瞬きを繰り返すうちに視界に鮮明になってきて、それが窓の外に広がる空と木であることがわかった。青々とした空には綿雲が流れ、新緑の木はさわさわと若葉を揺らしている。
その光景を見つめながら、凜は何だかリアルだなと思った。空を流れる雲にも、揺れる木の葉にもぼんやりしたところは一つもない。まるで現実の風景を見ているみたいだ。
その時、背後からどさり、と物が落ちるような音がした。凜が振り返ると、スライド式のドアの前に人が立っているのが見えた。足元に革製のスクールバッグが落ちている。先ほどの音はあの鞄が落ちたものなのだろう。
だが、その人物は鞄を拾おうともせず、呆然と凜の方を見つめて立ち尽くしている。未だ覚めきらない意識の中、凜は掠れた声でその人物の名前を呼んだ。
「侑……、李……?」
何度か目を瞬かせながら、凜が目を細めて侑李を見つめる。見慣れた制服、すらりとしたシルエット、整った顔立ち。その姿は自分がよく知っている侑李のものであるはずなのに、まるでテレビの中の芸能人を見ているかのように現実感がなかった。あたしはまだ夢を見ているんだろうか。侑李に会いたいという気持ちが強過ぎて、ありもしない姿を目の前に浮かび上がらせているのだろうか。
「凜!」
不意に飛び込んできた侑李の声が、凜の意識を現実に連れ戻した。次の瞬間、凜の身体にずしりとした重みが伝わり、次いで何かがふわりと凜の顔にかかる感触があった。
「よかった……! 目、覚めたんだね……! あたし……このまま凜が目を覚まさなかったらどうしようって、ずっと心配で……! でもよかった……! 凜……ちゃんと戻って来てくれた……!」
自分が侑李に抱き締められていることに気づくのに時間はかからなかった。侑李は何度も嗚咽を上げながら、痛いほどに凜を抱き締めている。侑李の頬を伝う涙が凜の肌に触れ、ひんやりとした、それでいて温かな感覚が全身を満たしていく。
懐かしい侑李の髪の香りをすぐ傍で感じながら、凜は安堵が満ち潮のように広がっていくのを感じていた。あぁよかった、あたしはまだ、忘れられてなかったんだ。
「ただいま……。侑李」
凜はそう言って両手を侑李の背中に置いた。侑李の嗚咽が一瞬止まったが、すぐにまた激しくしゃくり上げ始めた。
自分を抱き締める侑李の温もりが、手から、肩から、背中から伝わり、凜は目を閉じてその安らかな感覚に身を委ねた。
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