おかえり
その後、通りがかった看護師に侑李が凜の目覚めを知らせ、直ちに家や学校に連絡がなされた。母の凪沙はパートが休みで家にいたらしく、すぐに病院に行くと言った。
実際、三十分も経たないうちに凪沙は病室に駆け込んできて、目覚めた凜の姿を見るなりはっと息を呑んで目を見開いた。よほど急いできたのか、ブラウスのボタンが互い違いになっており、普段は入念に化粧を施している顔もすっぴんのままだ。
「凜、あんた大丈夫なの!? 気分が悪いとか、どっかが痛むとかない!? それに頭は大丈夫なんでしょうね!? あたしのことわかる? 友達のことは? この子、侑李ちゃんって言うんだって? あんたが入院してから毎日お見舞いに来てくれたのよ? いい子よねぇ。それにあの……何だっけ? あの背が高くて格好いい男の子。あの子も何回か来てくれてたみたいよ。ホントにあんた、学校のこと何にも教えてくれないんだから。あんな格好いい彼氏がいたなんて、何でもっと早く教えてくれなかったのよ?」
ベッドに駆け寄るなり、凪沙が凜の肩を摑んで矢継ぎ早に質問を浴びせかける。そんな母の姿を見て凜は苦笑した。言いたいことを一度に言ってしまわないと気が済まない性格は相変わらずのようだ。
「もう、お母さんたら……、そんなにいっぺんにいろいろ訊かないでよ。あたしは大丈夫。気分は悪くないし、どこも痛くないから。お母さんのことも、侑李のこともちゃんとわかるよ。それに、鷹は彼氏じゃなくてただの友達だから」
凜が一つ一つ質問に答えてやると、凪沙はようやく落ち着きを取り戻したらしい。ゆっくりと頷いて凜の肩から手を離すと、改めて感慨深そうに息を吐いた。
「……そう。だったらいいんだけど。他にもいろいろ訊きたいことあったはずなんだけど、あんたの顔見たら力抜けちゃって、何にも思い出せないわ……」
そう言うと凪沙は、脱力しきったように近くにあった丸椅子に腰を落とした。乱れた髪を手櫛で整える。髪の間から見える顔には、疲労と安堵の両方が滲んでいた。
「お母さんの方こそ、身体は大丈夫なの? あたしの入院費稼ごうとして、また無理してるんじゃないの?」
凜が訝るように尋ねた。母はただでさえもシングルマザーで余裕がない。その上、自分のせいで余計な負担をかけたのではないかと心配になったのだ。
だが、凪沙は意外にもあっさりとかぶりを振って言った。
「あたしね、パート減らしたのよ。よくよく考えたらあたし、今まで忙し過ぎたせいで、あんたとろくに話す暇もなかったもんねぇ。だからあたしはあんたの学校のこととか全然知らなくて、侑李ちゃんや、鷹って子から聞いて初めて知ることもたくさんあったの。
もし、あんたがこのまま目を覚まさなかったら、あたしはあんたのこと何にも知らないままだった。でも、それじゃ母親としてダメだって思ったのよ。だからこれからは、なるべくあんたと話す時間も取ろうと思って……」
途中で気恥ずかしくなったのか、凪沙は目を逸らしながら次第に小声になっていく。凜は意外そうに母を見つめた。自分のことでいっぱいいっぱいだった母が、こんな風に気を遣ってくれるようになるなんて思わなかったのだ。そんな親子を取り持つように、侑李が腰を屈めて凜に耳打ちしてくる。
「……お母さん、ずっと後悔してたんだよ。もっと凜と話しとけばよかった、ちゃんと話せる時に話しとかないと、どうなるかわかんないからって……。あの時のお母さん、すごく寂しそうな顔してた。凜が本当にいなくなったらどうしようって、不安だったんじゃないかな」
凜は目を瞬かせて母の顔を見つめた。疲労の滲んだ横顔から垣間見える、深い後悔。それは何も、自分のことだけを差しているのではないだろうと凜は思った。
凜と話す時間を作ると言った母の言葉。それはもう、二度と家族を失わないという決意の表れだったのかもしれない。
凪沙の来訪から三十分ほど経った頃、廊下をばたばたと走る音が聞こえてきた。
凜は最初、担任の杉岡が来たのかと思ったがそうではなかった。病室の引き戸が勢いよく開かれ、制服姿の長身の青年が現れる。その姿を見た途端、凜は胸が詰まりそうになった。
「鷹……?」
青年――鷹は息を切らして引き戸の前に立っていたが、呼吸を整えたところで凜のベッドの方に歩いてきた。侑李と凪沙の間まで来たところで立ち止まり、凜をじっと見下ろす。凜は奇妙な思いでその顔を見返した。鷹とはずっと会っていなかったはずなのに、ついさっきまで一緒にいたような感覚がある。だが、すぐにそれが鷹ではなかったことを凜は思い出した。
「葉月……」
食い入るように凜を見つめながら、鷹がようやく呟いた。心なしか、その瞳が震えているような気がした。
「鷹……だよね?」
凜が身を乗り出しながら尋ねる。鷹の姿が鮮明になるにつれて、彼とよく似た男の姿はぼやけて見えなくなっていった。
「ちゃんと……帰ってきてくれたんだな……」
鷹の瞳が見る間に滲み、瞬きと同時に涙が一粒零れ落ちる。涙は凜のベッドを包む、白いシーツの中に吸い込まれていく。
静かに落とされたその雫を見た瞬間、凜は内側から何かがこみ上げてくるのを感じた。侑李や凪沙とは違い、鷹は一言、自分の名前を呼んだだけだけれど、それでも言葉以上に彼の心を語る涙が、失っていたものの大きさを凜に思い出させた。
「あたし……ずっと夢を見てた」
シーツに視線を落としながら、凜が静かに呟いた。三人が怪訝そうに凜の顔を覗き込んでくる。
「すごく、すごく長い夢……。そこでいろんな人に会った。人を幸せにするためにお菓子を作ってる子や、みんなに歌を届けようと頑張ってる人……。それに、鷹に似た人もいた……」
鷹が瞠目して息を呑む。凜はシーツを見つめたまま続けた。
「……あたし、その世界のこと、本当は嫌いじゃなかった。でも……やっぱり帰ってきてよかった。こうやってあたしのこと、待っててくれる人がいたから……」
話しているうちに視界が滲み、間もなく凜は両手に顔を埋めて泣き始めた。鷹が濡らしたシーツの上に、ぽたり、ぽたりと、新しい雫が重なっていく。
侑李、凪沙、鷹の三人は当惑して顔を見合わせていたが、やがて安堵したように表情を緩めた。侑李が凜の方に屈み込み、そっと彼女を抱き締めてささやく。
「おかえり……。凜」
窓の外に広がる青々とした空、鼓膜を揺らす小鳥の
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