第八話 新しい居場所

嫌いなままで

『……俺は君に、嘘をついていた。凜、君はもう、いつでも現実に戻れるんだよ」


 その言葉を聞いた時、凜の頭にまず浮かんだのは空白だった。


 夢遊界に来てから今日まで、凜の心に燻り続けてきた感情。現実を離れているうちに、自分が家族や友達から忘れられてしまうのではないか。そして自分も、夢遊界に長くいるうちに現実を忘れてしまうのではないか。考えただけで不安で仕方がなくて、だけどその気持ちに押し潰されたくなくて、見ない振りをして夢遊界での日々をやり過ごしてきた。今はただ、現実で身体が回復し、意識を受け入れられるようになるまで待つしかないのだと、そう自分に言い聞かせて。


 だけど、そんな風に日々をやり過ごす必要なんてなかった。凜はとっくに、現実に戻る準備ができていたのだから。


「……何、それ……」


 ようやく口にできたのは一言だけ。だけどそれは嵐の前兆に過ぎなかった。呼吸が震えるのを感じたのも束の間、気がつくと凜の口からは言葉が迸っていた。


「……それ、どういうことよ。つまり何? あたしはすぐにでも現実に戻れたのに、あんたがそれを隠してたせいで無駄にこの世界に引き留められてたってこと!? ふざけんじゃないわよ!」


 湧き上がる怒りを抑えきれず、勢いのまま昴の頬を平手打ちする。昴は赤くなった頬を庇おうとも見せず、自責の念に堪えるようにじっと顔をうつむけている。そんな昴の態度がまた腹立たしくて、凜は彼に詰め寄ってさらにまくし立てた。


「あんた……あたしが現実に戻りたがってること知ってたよね!? いきなりこんなわけわかんない世界に連れてこられて、どうしていいかわかんなくて、ずっと不安だったこと知ってたよね!? 現実がどうなってるかもわかんなくて、あたしが現実のこと忘れちゃうんじゃないかとか、逆にみんなの方があたしを忘れちゃんじゃないかとか、いろんなこと考えてたらずっと怖くて……。なのにあんたはあたしのそんな気持ちを全部無視して、ただ自分のために嘘をついた!」


 荒い呼吸を繰り返しながらきっと昴を睨みつける。昴は反論する様子も見せず、凜から顔を背けたまま項垂れている。弁解するつもりはないらしい。


 そんな昴の態度を見て、凜は怒りを通し越して何だか悔しくなってきた。結局あたしは、最初から最後までこの男に遊ばれていたようなものだった。最初の頃はずっと軽薄で、ようやく真面目になったと思ったらやっぱりあたしを騙していた。そんな相手に告白されるかもしれないと期待していたなんて、凜は自分が馬鹿みたいに思えてきた。

 

「……あたし、最初に会った時からあんたのこと嫌いだった。やたら馴れ馴れしくて、人の心にずかずか踏み込んできて、こんな奴、絶対関わりたくないって思ってた。

 でもね……そんなあたしでも、あんたがただの軽い奴じゃないって思ったこと、一回だけあるんだよ。いつのことかわかる?」


 昴は項垂れたまま答えない。凜は続けた。


「……あたしが初めて夢遊界に来た次の日、あんた、ホテルの前まであたしのこと迎えに来たでしょ? あの時あんたは、夢遊界についてこんなこと言ってた。夢遊界っていうのは、現実で居場所がなくて、ずっと辛い思いをしてきた人だけが辿り着ける場所で、あんたはその人達に夢遊界で幸せになってほしいんだって。あの時のあんたは本心からそう言ってるように見えて、だからあたしも、少しだけ、あんたのこと見直してもいいかなって思った。でも……」


 そこで凜は視線を落とした。拳をぐっと握り締め、目に力を込めて顔を振り上げる。


「そうやってみんなをこの世界に縛り付けようとするのってただの偽善だよね!? だってそうでしょ? あんたはずっと夢遊界にいればいいなんて言ってたけど、どうせいつかはみんな現実に戻らないといけないんだよ!? なのにあんまり長いことこの世界にいたら、自分が現実で生きてたことなんか忘れちゃって、本当に居場所を失っちゃうかもしれないんだよ!? そのこと考えたことあるの!?」


 昴がはっと息を呑む。そのまま口を軽く開け、瞠目して凜を凝視してくる。その反応からするに、どうやら凜に指定されるまで考えたことがなかったのだろう。夢遊界を終わらない楽園だと捉え、現実に代わる居場所だと盲信していた。


「……やっぱりそう。あんた、あんまり長いことこの世界にいるから、ここがただの夢だってこと忘れてるんじゃないの? この世界の夢はいつまでも覚めないとか言ってたけど、本当にそんなこと信じてるわけ?」


 口調が意地悪くなっているのを感じながらも、凜は言葉を止めることができなかった。昴は言い返そうとはせず、凜から視線を外して唇を引き結んでいる。そんな昴を見ているとそれ以上責め立てる気もなれず、怒りの感情が行き場を失っていくのを感じる。


 昴はきっと、自分達が夢から目覚めることなど本当に考えていなかったのだろう。夢遊界は現実と同じように存在していて、現実で居場所がなくなった人が代わりに生きられる楽園だと、そう信じて疑わなかった。

 だけど、どれだけ夢遊界でここで長い時間を過ごしたとしても所詮は夢。目が覚めれば全て終わりなのだ。そんな当たり前のことにも気づかずこの世界にしがみついているなんて、凜は昴に対していっそ同情すら覚えるようになっていた。


「……まぁ、あんたが何を思おうが、あたしにはどうでもいいけどね。あたしはもう現実に帰れる。そしたらあんたは夢の中の人ってことで、あたしとは関係なくなるんだもん。ま、この世界もちょっとは楽しかったから、一応お礼は言っといてあげる」


 そう言って凜はちらりと昴を見たが、昴は顔をうつむけたまま答えなかった。しばらく待ってみたものの、昴は顔を上げる気配すらなく、凜の方が先に痺れを切らした。


「……じゃ、あたしもう行くから。もう二度と会うことないだろうけど……」


 別れを告げて立ち去ろうとするも、昴はやはり顔を上げようとしない。凜は少しばかり逡巡したが、すぐに何かを振り切るかのようにその場から走り去った。


 遠ざかっていく足音が聞こえたのか、ようやく我に返ったらしい昴がはっとして顔を上げる。離れていく凜の背中を目にし、彼女を呼び止めようと口を開くも、なぜか全く言葉が出てこない。せめて追いかけようとしたものの、今度は身体が金縛りにあったかのように動かなかった。


 結局どうすることもできないまま、やがて凜の姿は見えなくなった。

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