潰えた希望

「それ以来、僕は毎週そのカフェに通うようになりました。それだけ頻繁に通っていると、さすがにあの女の人とも少しずつ話せるようになっていきました。

 その人は聡美さとみさんと言って、まだ二十代くらいに見えましたが、一人でカフェを経営していたそうで、僕はかなり驚きました。お店は小さかったですが、それでもいつもお客さんが入っていましたし、一人で大変ではないんですかと訊いてみたんですが、聡美さんは好きでやっていることだからと言って笑いました。

 そんな聡美さんを見て、僕は羨ましくなってしまって……。僕も聡美さんのように、美味しいお菓子を作って人を幸せにしたいと思うようになったんです。

 僕は聡美さんに、このお店で働かせてほしいと頼みました。聡美さんはかなり驚いたようでしたが、僕が本気だとわかると了承してくれました」


 それまで黙って史也の話に聞き入っていた凜だったが、そこで慌てて口を挟んだ。


「え、ちょっと待って。それじゃあんたは、その聡美さんって人に影響されてパティシエを目指したってこと?」


「はい。と言ってもそのときはまだ、パティシエになるという明確な目標はありませんでした。ただ、聡美さんのように、人の心に残るお菓子を作ることができればと……その気持ちだけは強かったですね」


「……そう」


 他に返す言葉が見つからず、凜は一言だけ呟いて視線を落とした。 名門高校の特進クラスに進学できるだけの学力があり、さらにお菓子作りという目標まで見つけた史也。そうした事実を知り、彼に共感していたはずの心が少しずつ翳りを帯びていく。


「僕はそれまでお菓子作りはおろか、料理だってろくにしたことがありませんでしたから、最初は失敗ばかりで随分迷惑をかけてしまいました。自分には才能がないんじゃないかと思うことも何度もありましたけど、時間を見つけて必死に勉強しました。    

 そうやって、 努力を重ねた結果……数か月して、ようやく自分でも美味しいと思えるものが作れるようになりました。聡美さんもすごい成長だと褒めてくださって、僕はとても嬉しかった。ようやく自分がやりたいことを見つけられた……。そんな思いでいっぱいでした」


 晴れやかな表情で語る史也とは裏腹に、凜は自分の表情が次第に曇っていくのを感じていた。知らず膝の上に視線を落とす。自分と同じく、クラスで孤立していた史也。目指すものが何もない、同じ空虚さを抱えていたはずの史也。だけど彼は、あたしと出会う前に、すでにやりたいことを見つけていた。


「……ただ、そうやってお菓子作りにのめり込んだことで、成績の方はどんどん下がっていきました。担任の先生も心配したようで、このままでは特進クラスに入れなくなると面談で何度も注意されました。だけど、その時の僕はもう医者になるつもりはなかったので、進級のことなんてどうでもよくなっていました。僕はお菓子を作っていられるだけで幸せだった。このまま卒業して、聡美さんとずっと一緒に働けたらどんなにいいだろうと思っていました」


 そこで史也が不意に言葉を切った。凜もようやく彼の方に視線を戻す。晴れやかだった史也の表情は一転、凜と同じく憂わしげなものへと変わっていた。


「……だけど、現実はそう上手くはいきませんでした。ある日、同じクラスの子が聡美さんの店に来て、僕がそこで働いていることがバレてしまったんです。白峰学院ではアルバイトは禁止されていましたから、翌朝すぐに僕は担任に呼び出されて厳重注意を受けました。当然家にも連絡が行って、両親から散々怒鳴られました。アルバイトなんかに現を抜かしているから成績が下がったんだとなじられ、今すぐ辞めるように言われました。

 今までの僕だったら、親の意見にそのまま従ったと思いますが、その時は反抗しました。やっと見つけた自分の本当にやりたいことを、むざむざ諦めるような真似をしたくなかったんです。僕は初めて親と口論をして……そのまま家を飛び出しました」


「飛び出した? あんたが?」


 凜が目を丸くして聞き返す。史也は頷くと、自嘲したように笑って続けた。


「はい。僕みたいな気弱な人間がそんな行動を取るなんて意外ですよね? でも、あの時の僕は本気でした。パティシエになる道を邪魔されるのなら、この家にいる意味なんてないと思っていたんです」


「……そっか。それで、その後はどうしたの?」


「特に行く当てはなかったので、とにかくがむしゃらに走り続けました。気がつくと聡美さんの店に来ていて……僕は店内に飛び込みました。営業時間はとっくに過ぎていて、聡美さんは店内の後片付けをしているところでした。いきなり現れた僕を見て、聡美さんはかなり驚いていましたが、すぐに何かあったらしいと気づいたようで、僕のためにテーブルを一つ開けてくれました。

 僕は親との口論のことを聡美さんに話して、それから頼んだんです。僕を住み込みで働かせてほしいって。お給料なんていらないから、ただお菓子作りの勉強をさせてほしいって……。僕は本気でした。お菓子作りの勉強ができるなら、学校だって辞めてもいいと思っていました」


「そこまでしても……あんたはパティシエになりたかったってこと?」


「はい。その時の僕にはもう、パティシエになることは生きる目的そのものでしたから、その夢を叶えられるなら、他のものを全て捨てたってよかったんです。

 だけど……僕の思う通りにはいかなかった。聡美さんは僕の話を一通り聞き終えると、困った顔をして言ったんです」








『史也君……。あなたがそこまでお菓子作りを好きになってくれたことは嬉しい。でもね、私、やっぱりもったいないと思うの。せっかく白峰学院みたいないい学校に行ってるのに、それを辞めてしまうなんて……』








「最初にそう言われた時……僕はショックでした。聡美さんなら、きっと僕の夢を応援してくれると思っていましたから……。

 僕は自分の伝え方が足りなかったんだと思って、もう一度聡美さんに言いました。僕はどうしてもお菓子作りがやりたい。聡美さんのように素敵なお菓子を作れるようになって、いつか自分の店を持ちたいんだって。

 ……だけど、僕がそう言うと、聡美さんは突然申し訳なさそうな顔になりました。それから罪を告白するみたいに言ったんです」








『……実はね、史也君。ずっと言ってなかったことがあるんだけど……。私、このお店を閉めようと思うの』








「その言葉を聞いた時の衝撃は今でも忘れられません……。急に目の前が真っ暗になって、自分が今まで歩いてきた道が一気に崩れ落ちていくような、そんな感覚でした……」







  

『実はここのところ、あんまり売上がよくなくて……。ほら、今時カフェなんていくらでもあるでしょ? うちみたいに地味な店だと、なかなか新しいお客さんが入らなくって……』








「聡美さんはそう言いましたが、僕は到底納得できませんでした。どうにか思い留まってほしくて、立ち上がって反論したんです。このお店を気に入ってくれている人はたくさんいる。ここは他のお店みたいにうるさい人がいなくて、ゆったりとして落ち着けて、美味しいケーキがあって、何より聡美さんがいて……そんな居心地のいい場所がなくなったら、悲しむ人がいるはずだって……。

 だけど、聡美さんは意見を変えてくれませんでした。今は静かな雰囲気のカフェもたくさんあるから、すぐにまたお気に入りのお店が見つかると言って……」


 膝の上に置いた両手を史也がぐっと握り締める。彼の震える拳を凜は見つめながら、聡美の店を一番必要としていたのは、史也自身だったのではないだろうかと考えた。

 

「僕は何とか別の反論を考えようとしましたが、パニックになってしまって何も思いつきませんでした。そうしたら聡美さんが、さらに衝撃的なことを言ったんです……」








『それにね……史也君。私がお店を畳もうとしてる理由はもう一つあるの。実は私、前から婚約してた人がいるんだけど、その人が近々転勤になることが決まって、一緒に来てほしいって言われて……』








「その言葉を聞いた瞬間……僕はやっと目が覚めたような気持ちになりました。きっと聡美さんの中では、とっくの昔に結論が出ていたことだったんですね。ただ、僕に気を遣って言い出せなかっただけで……。僕は聡美さんに恩を返すどころか、重荷になってしまっていた。それに気づいたとき、僕は何も言えなくなってしまいました……。とにかく、これ以上聡美さんに迷惑をかけてはいけないと思って、お祝いと、今までのお礼を言って店を出て行きました」


 当時の心痛を追体験するかのように、史也が顔を歪めて深々と息をつく。順風満帆に見えた彼の人生は、一瞬にして航路を絶たれた。史也はその日、全てを失ったのだ。居場所も、夢も、憧れの人も。


「聡美さんの店を出て……僕は行く当てもなくふらふらと歩き続けていました。たぶん夜の十時を過ぎていたと思いますが、家に帰る気にはなれませんでした。帰ったところで、どうせまた親の決めた道をなぞるだけの日々が始まるだけです。でも、他にどうすればいいかもわからなかった。聡美さんがいなくなったことで、僕はもう、何を目指して生きていけばいいのかわからなくなってしまったんです……。

 僕は絶望的な思いで歩き続けました。周りの景色も見えず、何の音も聞こえなかった。

 ……だから、自分の方に近づいてくる車のヘッドライドも、ブレーキの音も、直前になるまで、全く気がつかなかったんです」

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