運命の味

「現実の世界で、僕は高校一年生でした。通っていた高校は白峰しらみね学院と言うんですが、ご存知ですか?」


 白峰学院。記憶を辿るまでもなく、その学校名は自然と凜の頭に浮かんできた。全国でもトップクラスの大学進学率を誇る名門校で、特に医学部への進学率が圧倒的に高いことで有名だった。当然、入学するのも難しく、倍率は毎年二桁を下らないと聞いたことがある。


「うん、知ってる……。っていうかあんた、そんな頭いいとこの生徒だったの?」


「ええ。といっても、僕にとっては大して嬉しいことでもなかったんです。当時の僕には、勉強くらいしかすることがなかったものですから……」


「どういうこと?」


「僕は昔から身体が弱くて、少し動いただけでも疲れてしまう体質だったんです。だから友達と外で遊ぶこともできなくて、いつの間にか皆の輪から外れてしまっていました。小、中学校のどちらも友達はできなくて、休み時間にすることといえば、教科書か参考書を読むくらいしかありませんでした。九年間そうやって過ごしてきましたから、自然と学力が付いていったんだと思います」


 勉強している自覚がないのに勝手に知識が増えていったとは、凜にとっては何とも羨ましい話だった。だけど、他のクラスメートが運動場で遊んでいる中、一人教室に残って勉強するしかなかったなんてきっと寂しかったはずで、当時の史也の心境を考えると、安易に羨んではいけない気がした。


「白峰学院に進学してからも、僕の生活に大した変化はありませんでした。周りの生徒は入学当初から目指している大学があって、話題といえば進学や受験勉強のことばかりでした。だけど、僕には目標なんてなかったからやっぱり話が合わなくて、相変わらず一人のままでいました。成績だけは、いつも上位にいましたが」


 史也の話を聞きながら、凜はどことなく自分と近いものを感じていた。居場所のない寂しさ。目指すものが何もない空虚感。それは凜がいつも感じていたことでもあった。


「そんな生活を続けて半年が経ったとき、ホームルームで進級の話がありました。白峰学院では、医学部を目指す人のために特進クラスというものが用意されていて、希望者は成績に応じてそこに進級することになっていました。僕は特進クラスに入るだけの条件は満たしていましたし、両親も医者をやっていましたので、このまま特進クラスに入るのが自然な流れだと思っていました。

 ただ……自分が医者になりたいと思っているかは正直疑問でした。自分も身体が弱いのに、人の命を預かるような仕事は務まらないと思ったんです」


 凜は頷いた。たとえ身体の問題がなかったとしても、繊細そうな史也のことだ。患者の血を見るだけで気絶してしまうだろう。


「そうやって進路について迷っていたときでした。ある日、下校途中で雨が降ってきたので、どこか雨宿りをする場所はないかと探していたんですが、その時、一軒のカフェの看板が目に入ったんです」


 


『Cafe de Satomi』


 


「その名前の下に、ケーキやパフェの写真が貼ってあったんですが、どれも見た目がとても可愛らしくて、僕は自分でも知らないうちにそのお店の方に向かっていました。男一人でカフェに入るなんて普段ならまずしないんですが、そのときの僕には恥ずかしさよりも、そのお店に行きたいという気持ちの方が強かったんです。

 二分ほど歩いたところで、僕はそのお店に辿り着きました。お店は路地のようなところにあって、落ち着いた色の緑色のオーニングがかかっていました。壁は白くて清潔感があって、木製のドアが僕を温かく迎え入れてくれるみたいに見えました」


 店の外観を想像しながら、凜は自分が、そのカフェとよく似た店を知っていることに気づいた。緑のオーニング、白い壁、木製のドア。見るからに温もりを感じさせる空間。あれはどこで見たものだっただろう。


「僕は迷わずその中に入っていきました。店内にお客さんはいましたが、甲高い声でお喋りをする女の子達はおらず、皆さん静かに話をするか、新聞や本を読んでいるかで、ゆったりと落ち着いた空気が流れていました。テーブルの傍には大きな窓があって、そこから日光が店内に差し込んでいて、みんなとても幸福そうな表情を浮かべていました」


 目の前にそのカフェがあるかのように、史也は店の光景をつまびらかに語ってみせた。内装を説明されたことで、凜はようやくそのカフェが、夢遊界にある史也自身のカフェと瓜二つであることに気づいた。


「僕は物珍しい気持ちで店内を眺めていたんですが、その時、店員の人が僕に話しかけてきました。僕が振り返ると、栗色の髪を三つ編みにした女の人が、僕の方を見てにこにこ笑っているのが見えました。僕は何と答えていいかわからなくなってしまって、雨宿りをしようとしてたまたまこの店を見つけたんだとか、言い訳めいたことを言ったように思います。

 だけど、その女の人は全然気にした様子はなくて、相変わらずにこにこしながら僕を席に案内してくれました。そこでメニューを渡されましたが、何を選んでいいか全然わからなくて、とりあえず勧められるままにケーキを注文しました」


 初めてのことの連続で戸惑う史也。その光景が目に浮かび、凜は綻んだ気持ちになってふっと笑った。きっと、その女性の店員も同じ気持ちだったのだろう。


「しばらくして、頼んだケーキが運ばれてきました。写真で見たとおりの可愛らしい見た目でしたけど、それだけでないことは一口食べた瞬間にわかりました。生地はふんわりと柔らくて、クリームはくどくない甘さがあって、あんなに美味しいケーキは今まで食べたことがありませんでした。僕は夢中になって食べ続け……気がつくとお皿が空になっていました。ちょうどその時、またあの女の人が話しかけてきたんです」


 


『あら、もう召し上がったんですね。お味はいかがでした?』


 


「僕は何とかこの感想を伝えようと思いましたが、普段ほとんど人と話をすることがなかったので、あまり上手く説明することができませんでした。だけど、僕のつたない言葉でもその女の人は嬉しかったみたいで、また来てほしいと笑顔で言ってくれました。僕は客ですから、そう言うのは当たり前のことだったんでしょうが……それでも僕は嬉しかった。何もないと思っていた日常に、初めて楽しみと呼べるものができたと思えたんです」


 史也はそう言って口元を緩めると、懐かしむような顔をして夜空を見上げた。お気に入りのカフェができた。それだけの出来事が、彼にとっては人生の意味を変えてしまうほどの意味を持っていたということか。

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