断絶された過去

「……それで、あいつと最後に観覧車に乗って、あたしの親の話をしたの。どうせ夢なんだからいいやって思って、本当のこと全部話したんだ。そしたらあいつ、あたしの気持ち全部わかったみたいな顔して、俺が傍にいるからここにいてほしいとか言い出したんだ。今までだったら、あいつのキザなセリフなんかすぐに撥ねつけてやったのに、何でかわかんないけどその時は気持ちが揺れちゃって……。このままこの世界にいてもいいかもって、一瞬思っちゃったんだよね……」


 一連の話を語り終えたところで、凜は息をつきながら天を仰いだ。墨を溶かしたような夜空には金色の星がいくつも瞬き、ホテル街と一体となってきらびやかな光が辺りを包み込んでいる。


「……ずっと現実に戻ることを考えてたはずなのに、だんだん夢遊界を居心地いいって思い始めてる自分がいる。心のどこかで、この世界にいた方がいいんじゃないかって考えてる自分がいる。それが怖いんだよね……。このまま夢遊界にいたら、現実と夢が入れ替わっちゃいそうで……」


 重い塊を吐き出すように、凜は深々とため息をついた。決して楽しいわけではなかった現実での生活。さりとて、現実を捨て去り、夢の世界での暮らしを望むほど能天気な考えにもなれなかった。自分の帰る場所は現実にしかない。だからこそ、夢遊界に長くいることで、自分が現実から乖離してしまうことを怖れていた。


「……そんなこと考えてたら、何か頭の中ぐちゃぐちゃになっちゃって。それで一人で塞いでたんだ。でも、史也が来てくれてよかった。話聞いてもらったおかげで、ちょっとすっきりした気がする」


 嘘ではない。話す前はこんがらがる一方だった思考が、史也に話をしたことで次第に明瞭になっていた。現実でも、凜は自分の気持ちを人に話すことはあまりなかったが、話すことで心が軽くなることもあるのだと少しだけ実感できた。

 凜は星空から視線を外し、謝意を示そうと笑みを浮かべて史也の方を見た。だが、史也はなぜか浮かない顔をしていた。凜の方を見ることも、星空を眺めることもせず、膝の上で握り合わせた手にじっと視線を落としている。


「史也? どうかしたの? あたし、また何か変なこと言った?」


 凜が心配そうに尋ねる。史也は我に返った様子ではっと息を呑み、急いで凜の方に向き直って言った。


「……あ、すみません。えっと、別に凜さんの話に違和感を覚えたわけじゃないんです。ただ、わからなくて……」


「わからない? 何が?」


「凜さんがどうしてそこまで現実にこだわるのか、です。さっきからお話を聞いていると、凜さんはどうしても現実に戻らなければいけないと考えているように見えますけど、その理由が僕にはわからないんです」


「理由って……そんなの当たり前のことじゃないの? 夢の世界なんかに連れてこられて、そのままでいいって思う方がおかしいって言うか……」


「もちろん、最初から順応できる人は少ないと思います。僕が初めて夢遊界に来た時も、少なからず戸惑いはありましたからね。

 だけど、僕は現実に帰りたいとは思わなかった。むしろこの世界に来られたことを幸せだと感じましたよ。ここでは僕がどんな生き方をしていようと、誰も文句を言う人はいない。そんな居心地のいい場所は今までありませんでした。この世界で出会った他の人達も、みんなこの世界を心から楽しんでいるように見えました。

 だから不思議でならないんです。あなたがどうして、それほど現実に帰りたいと思うのか……」


 凜は咄嗟に返事ができなかった。この世界にいるのが幸せという、史也の言葉が信じられなかったのだ。確かに夢遊界にいる間は幸せかもしれないが、夢を見ている時間が長くなればなるほど、現実に戻った際に夢との乖離を感じて苦しくなる。そんな簡単なことがどうしてわからないのだろう。


「……史也は怖くないの? 夢遊界に居続けて、現実に戻れなくなるかもって思ったことないの?」


「そうですね……。最初は少し、思ったかもしれません。だけど、すぐにどうでもよくなりました」


「どうでもいい?」


「はい。考えてみれば、僕は現実の世界で幸せだったことなんてありませんでしたから。だから現実に未練もない。僕には夢遊界さえあればいいんです」


 そう断言した史也の表情は、どこか思い詰めているように見えた。普段は穏やかな彼の強い口調にも、かげりを帯びた横顔にも、苛烈なまでの現実への厭悪えんおが滲み出ている。


「史也……あんた、何があったの? そこまで現実を嫌ってるってことは、よっぽど嫌なことがあったってことだよね?」


 凜が初めて会った時も、史也は現実に戻るつもりはないと言っていたが、凜にはどうしてもその感覚が理解できなかった。夢遊界では、自分が見たい夢をいつまでも見続けることができると昴は言っていたけれど、凜はその言葉を真に受けてはいなかった。夢遊界の名のとおり、この世界は所詮夢。どれほど長い年月を過ごしたところで、目が覚めれば全て消えてしまうのだ。そんな曖昧なものに、どうして史也はすがろうとするのだろう。


「無理に話してとは言わないよ。でも、あたしもわかんないんだよね。何であんたがそこまで夢遊界にこだわるのか。でも、現実での史也の話聞いたら、ちょっとはあんたの気持ちもわかるかもしれない。だから……史也が嫌じゃなかったら、話してくれると嬉しいんだけど……」


 先ほどの史也と同じように、凜は遠慮がちに申し出た。史也は逡巡しているのか、膝の上に視線を落として黙りこくっていたが、やがて意を決したように頷いた。


「……わかりました。正直なところ、僕も誰かに知ってほしかったのかもしれません。僕がどうして、夢遊界でしか生きられないと思うのか……」


 顔を上げてそう言った後、史也は再び視線を落として足元を見つめた。それから一つため息をつくと、水底に沈殿した不純物を取り出すかのように、記憶を辿ってぽつりぽつりと語り始めた。

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