第五話 思い出の味

控えめな優しさ

 遊園地のエントランスから入場してくる人の流れに逆行して、凜はがむしゃらに走っていた。顔を上げることも、振り返ることもせず、何かを追い払うかのようにひたすらに走り続けていた。


 そうして走り続けてどれくらい経っただろうか。さっきまで鳴り響いていた賑やかな音楽は消え、いつの間にか辺りは暗くなっていた。凜はその場で立ち止まって荒い呼吸を繰り返したが、次第に落ち着いてきたところでようやく顔を上げた。


 そこは昨日(夢の中に日付の概念があるのかは知らないが)、凜が泊まったホテルのある場所だった。辺り一帯に広がるきらびやかな空間。凜を迎え入れるかのように開かれたホテルの扉。まさに夢そのものといった光景に昨日は心を躍らせたものだが、今はそんなものを見ても嬉しくも何ともなかった。近くにあったベンチに腰かけると、凜は両手で頭を抱えて塞ぎ込んだ。


 あたしはどうしてしまったのだろう――。混乱する頭で凜は考えた。夢遊界に来たばかりの頃は早く現実に戻りたいと思っていたのに、いつの間にかこの世界を受け入れてしまっている。レインボーランドのアトラクションを楽しみ、昴の甘言に惑わされているうちに、一瞬でもこの世界にいてもいいなどと考えてしまった。

 これも全て昴のせいだ。わかったような口を利いて、心を乱すことばかり言うから――。


「あれ、あなたは……」


 不意に前方から声が聞こえ、凜はゆっくりと顔を上げた。白いシャツにベージュのチノパンツというシンプルな装いをした史也が、心配そうにこちらを見つめている。


「あれ、あんた、何でこんなとこにいるの? お店はいいの?」


「ええ。営業時間が決まっているわけはありませんから。少し気分転換をしようと思って、散歩しに出てきたところなんです」


「ふーん……。なんか気楽だよね。自分の好きな時にお店開けて、売り上げのことも気にしないで、ただお菓子作ってればいいなんて……。いいよね、そうやって好きなことして幸せでいられる人は……」


 無意識のうちに文句を垂れ流していることに気づき、凜は急に自分が嫌になった。自分が腹を立てている相手は昴なのに、どうして史也に当たらなければならないのだ。


「……ごめん。ひどいこと言ったね。あんたは何にも関係ないのに……。あたし、さっきから何かおかしくて……」


 凜は項垂れてそう詫びたが、史也は気分を害した様子もなかった。むしろ心配そうに眉を下げ、じっと凜の顔を見つめてくる。


「何かあったんですか? よかったら僕が話を聞きますよ? もちろん嫌じゃなければですけど」


 遠慮がちにそう言った史也の顔を、凜は瞬きをして見返した。あんなひどいことを言った直後なのに、史也は自分の力になろうとしてくれている。自分とそう変わらない年齢のはずなのに、何て大人らしい振る舞いをするんだろう。


「……ありがとう。あたしもちょっと混乱してるから、聞いてくれたら助かるかも。でも本当にいいの?」


「もちろんです。僕にはそれくらいのことしかできませんから」


「そっか……ありがとう。あんたっていいヤツなんだね、史也」


 褒められると思っていなかったのか、史也が照れくさそうに笑った。それを見て、凜も少しだけ笑みを取り戻す。

 史也は凜の座っているベンチの方に歩いてくると、凜の隣から少しスペースを空けたところに腰かけた。距離を取ってくれたのは遠慮からか、それとも無意識の気遣いなのか、いずれにしても、どこまでも控えめな彼の態度が今の凜には有り難かった。


 凜は一つ息をつくと、夢遊界のホテルで目覚めてからの出来事について話し始めた。

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