秘めた本心

 観覧車の座席というのは、思った以上に距離が近いものだと乗ってから気づいた。凜は極力昴の方を見ないようにしながら、腕組みをしてひたすら外の景色を見続けていた。


「……そんなに外ばっかりガン見しなくても。ちょっとは俺の方も見てほしいな」


 向かいに座る昴が拗ねたように言う。だが凜は意地でも彼の方を見ようとはしなかった。


「いいでしょ別に。観覧車って景色を楽しむもんだし」


「ま、それもそうか。いやー、それにしても観覧車なんて久しぶりに乗ったな。こうして見ると結構高さあるよな。小さい子だったら怖くて泣いちゃうんじゃない?」


 昴の言葉に幼少期の記憶が呼び起こされる。泣きじゃくる自分。それを宥める両親。そうした過去を見透かされたのではないかと凜は動揺したものの、それを悟られるのも癪だったので努めて平然とした顔を作った。


「そう? あたしは別に平気だったけど。親と一緒だったから怖くなかったし……」


 嘘だ。実際には頂上手前で怖くなり、母の膝に顔を埋めて泣いていたのだ。母が自分の頭を撫で、父がしゃがみ込んで自分の背中をぽんぽんと叩く。その時のことを思い出すと、心の深い部分が疼いたような気がした。


 凜が追想に捕らわれている間にもゴンドラはどんどん上昇していき、間もなく頂上というところまで来た。レインボーランドの広い園内が一望できる。人の姿は判別できないほど小さなものになっていたが、それでも時々、園内を歩く親子の姿を見ることができた。母親と父親の間に挟まれ、双方と片手をつないだ子ども。そうした仲睦まじい様子を見ていると、凜の心はどうしても過去に引き戻されそうになった。


「……凜はさ、親のことをどう思ってるの?」


 昴が唐突に尋ねてきて、凜は反射的に正面を見た。昴はさっきまでのチャラけた様子もなく、いやに真面目な顔をして凜の言葉を待っている。だけど凜には、昴が自分の親のことを知りたがる理由がわからなかった。自分と昴は赤の他人で、自分の親のことなど、昴には何の関係もないのに。


 凜は昴を無視して窓の外に視線を戻そうとしたが、ふと、いっそ正直に話してみようかという気持ちになってきた。侑李にも鷹にも、まして母には決して打ち明けることのできなかった本心。なぜそれをこの男に話したくなったかといえば、ここが夢の世界だからだ。自分が親について話した記憶も、そこで感じるであろう胸の痛みも、目が覚めたら全て消えてなくなる。


「……うちの親、あたしが中学の時に離婚して、今は母親と二人で暮らしてるの」


 窓の外に視線を戻しながら、凜がぽつぽつと話し始めた。地上は少しずつ遠ざかっていき、手をつないだ親子の姿も見えなくなる。ぼやけていく親子の幻影の代わりに、現実の母の姿が脳内で形を取っていく。


「シングルマザーってやっぱ大変みたいでさ。お母さん、スーパーとスナックのパート掛け持ちしてるんだ。両方重なる日も結構あって、そういう日はかなり忙しそうにしてる。だからあたしも遠慮しちゃって、話とかもあんまりできないんだよね……」


 母はいつも慌ただしい生活を送っていた。昼間はスーパーで働き、スーパーから帰ったと思いきや服を着替えてスナックの仕事へ向かう。凛とは基本すれ違いの生活で、学校から帰った時に少し顔を合わせる程度だ。たまに休みの日が重なることがあっても母は昼まで寝ていて、午後からは溜まっていた家事をバタバタと片づけていく。そんな母の姿を前にしては、自分の取るに足りない日常の話をする気になどなれなかった。


「でも進路とか、そういう大事なことはやっぱりちゃんと聞いてほしくて。実際話したこともあるんだよ。でもお母さん、あたしにはやりたいことないとか、結婚して旦那に養ってもらうしかないとか言うばっかりで、全然聞いてくれなかったんだ」


 実際、凜には何かやりたいことがあるわけではない。大学に行きたい、こんな仕事がしたいという希望があるわけでもない。だから結局流れに身を任せて、卒業して適当な会社に就職して、手頃な相手を見つけて寿退社して、専業主婦として家庭に入る道を辿ることになるのかもしれない。


 でも、だからと言って、最初から一本の道しかないと決めつけられるのは嫌だった。他の可能性を考えもしないで、自分という存在を安易に断じられたくはなかった。


「お母さんが大変だってのはわかるし、頑張って働いてくれるのありがたいとは思うよ。でも……何だろうね。本当はもっと、あたしのこと見てほしかったのかな」


 母に遠慮して言い出せなかった数々の言葉。でも本当は、黙っていても気づいてほしかった。いつもと様子が違うことに気づいて、何かあったのかと尋ねてほしかった。そうしたら打ち明けることができた。学校のこと、友達のこと、渇ききった日常のこと。


 だけど母は忙し過ぎて、娘の様子をじっくり観察する暇もなかったのだろう。だから凜は本心を打ち明ける気にもなれず、ただ索漠とした思いだけが積もっていった。


「……なんて、こんなこと、あんたに言ったって仕方ないんだけどね」


 凜が肩を竦めて軽く笑った。いくら母に対する胸中を語ったところで、それは所詮夢の中の譫言うわごと。現実にいる母の元へと本心が伝えられることはない。


 いつの間にかゴンドラは頂上を通り過ぎており、徐々に下降を始めていた。がたん、ごとんという音を立て、わずかな振動と共にゆっくりと地上へ向かっていく。再び鮮明になりゆく光景を見つめながら、凜は少しばかり心が軽くなっているのを感じていた。自分が母に何をしてほしかったのか、言葉にして初めて気づくことができたようだ。


「……凜」


 不意に昴に名前を呼ばれ、凜は彼の方に顔を振り向けた。昴はいやに真面目な顔をしてこちらを見つめている。その真剣な表情が何だか怖くて、凜は咄嗟に茶化そうとしたのだが、それより早く昴が凜のいる側の座席に移ってきた。凜が抗議の声を上げるよりも先に、膝に置いた手に手を重ねられる。


「俺じゃ……ダメなのかな」


 表情と同じく真剣な声色で昴が問いかける。当惑した凜は手を振り払うこともできず、目を瞬かせて昴の方を見返した。狭いゴンドラ内で、男と至近距離で見つめ合うというシチュエーションを前にして、意思とは関係なく心臓が早鐘を打ち始める。


「凜は今までずっと我慢してきた。親に言いたいことはいろいろあるけど、自分のために頑張ってくれてることもわかってるから、ずっと遠慮して平気な振りしてた。

 でも、本当は寂しかったんだろ? もっと一緒にいて、自分の話を聞いてほしかったんだろ? 自分がどんなことを考えてて、どんなことで悩んでるのか、知ってほしかったんだろ? 自分のこと……ちゃんと一人の人間として、見てほしかったんだろ?」


 凜は目を見開いて昴を見返した。なぜ、そんなに自分の考えていることがわかるのだ。


 昴が前傾姿勢になってさらに凛と距離を詰めてくる。膝の上に置いた手を両手で握られ、胸の辺りまでそっと持ち上げられる。夢の世界では手の感触や体温を感じることはできなかったが、それでも凜には、彼の肌の温かさや、硬く握られた手の力強さが伝えられたような気がした。


「俺はお前のことを決めつけなんかしない。いつだってお前の傍にいて、お前の話を聞いてやりたいし、お前が悩んでたら力になってやりたい。お前にそんな寂しそうな顔をさせるようなこと、俺は絶対にしない。

 だから……凜、このまま俺と、この世界にいてくれないか?」


 凜は咄嗟に返事をすることができなかった。さっきまでの軽口からは想像もつかない、心のこもった言葉の数々。それを口にしている男が鷹の顔をしていることもあって、心が揺れるのを抑えられない。


(このまま……このままここにいれば、もう寂しい思いをすることもない……。昴が……鷹が、いつでもあたしの傍にいてくれる……)


 逃避とも呼べる考えが頭をよぎる。少し前までの自分ならすぐに邪念を振り払うことができたのに、どうしてか今は、冷静な思考を働かせることができなかった。現実に戻らなくてもいい。代わりに今、向かい合っている彼に身を委ねてしまえばいい。そんな囁きがどこかから聞こえ、凜自身、本当にそうしてしまおうかと思った。だけど実行に移す勇気は出なくて、凜は一旦目を伏せ、何度か瞬きを繰り返してから、ようやくおずおずと顔を上げた。


 だが、視界に昴の顔が飛び込んできた時、不意に一つの記憶が脳裏に蘇ってきた。

 あれはそう、現実の世界での出来事。鷹の振りをした昴ではなく、本物の鷹と一緒に下校した日のことだ。帰り道、人気のない電車の中で、凜はやはり家族の話をした。今と同じように開けっ広げで、他の人にはできないような話。


 だけど鷹は、そんな凜の話に誠実に耳を傾けてくれた。母と同じように高卒で就職して、結婚して家庭に入って、家事と子育てに追われる日々を送るしかないのだと。そうやって人生を諦めていた凜に、鷹は他の人にはないものがあると言ってくれた。それを言われた時、どれだけ心が慰められたことか――。何もない、空っぽだと思っていた自分の存在を、鷹は認めてくれたのだ。


 蘇った現実での記憶が、惑わされそうになっていた凜の心を次第に引き戻していく。明瞭さを取り戻す意識の中で、凜は改めて目の前の男の顔を見つめた。気遣わしげな表情をした鷹――いや、昴の顔が目に入ったが、凜の心が動かされることはもはやなかった。

 鷹と同じ顔をした男。だけどやっぱり、この男は鷹とは全然違う。


「……調子いいこと言わないでよ」


 凜が低い声で言った。昴が当惑した顔になって凜を見返す。凜は自ら身体を引いて昴から距離を取ると、上目遣いに彼を睨みつけて叫んだ。


「わかったような口利いてるけど、あんたは結局、あたしをここに引き留めておきたいだけなんでしょ!? そうやって甘い言葉でその気にさせて、現実のこと忘れさせようとして、ただ自分達の仲間を増やしたいだけじゃない! 

 何が夢遊界よ。何が理想の世界よ! あんたは結局、そうやって現実から逃げてるだけじゃない!」


 凜が一息にそう叫んだ時、ちょうどゴンドラが地上に戻ってきたようで、入口の扉がぷしゅうと音を立てて開いた。凜は引っぱたくようにして昴の手を振り払うと、ゴンドラから飛び降りて出口の方へと走って行った。


「おい凜! 待ってくれよ!」


 昴が背後から叫んで引き止める。だが凜は立ち止まらなかった。振り返ることなく全速力で走り、間もなく人混みに紛れて消えた。

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