空虚の上塗り
ようやくそこまで語り終えたところで、史也は肩を落として息を吐いた。長い昔話を終え、疲れ切った様子が見て取れる。
「……後は知っての通りです。最初に目が覚めた時、僕は自分が死んだのかと思いました。だけど、すぐにそうじゃないことがわかって、僕はようやく自分の居場所を見つけたと思ったんです。ここなら誰にも邪魔されず、好きなだけお菓子作りの勉強をしていられる。自分の店を持って、僕の作ったお菓子を誰かに食べてもらえる……。現実ではそんなことはあり得ません。だから……僕が夢を叶えるためには、夢遊界にいるしかないんです」
そう言って史也は顔を上げた。先ほどまでは苦悶に歪められていた表情は、今や過去を語り終えたからか、決意を滲ませた清々しいものへと変わっている。
「……これで僕の話は終わりです。だけど不思議ですね。現実のことなんて、もう二度と思い出すことはないと思っていたのに、話しているうちに自然と記憶が蘇ってくる……。忘れたと思っていても、心のどこかで覚えているものなのかもしれませんね……」
自分に語るように言って史也は頷く。それから凜の方に向き直ると、いつも通り柔和な微笑みを浮かべて言った。
「現実と夢が入れ替わるのが怖いという凜さんの気持ち、わからないわけではありません。だけど僕は、この二つが入れ替わっても別に問題はないと思うんです。たとえ現実のことを忘れてしまっても、僕達には夢遊界がある。自分の願いを叶えて、自分らしく生きられる場所がある。だから凜さんも、夢遊界でやりたいことを見つけて……」
「……あのさ」
凜が不意に史也の言葉を遮った。彼が過去を語っている間は辛うじて感情を抑えつけていたものの、今は制御が効かなくなり、沈殿した感情がマグマのように煮え立っていた。
「……あんた、一番大事なことわかってない。あんたは夢遊界でやりたいことできれば幸せだって言ったけど、あたしにはそんなの何もないの! あんたはいいよ。最初から自分のやりたいこと決まってて、それをするために夢遊界にいるって言える。でも、あたしはそうじゃない。自分が何したいかなんて今もわかんないし、それでこの世界にいろって言われても困るだけ!」
言葉が一気に迸り、反動ではぁはぁと息をつく。まさか怒りをぶつけられるとは思わなかったのか、史也が目を丸くして凜を見つめてきた。彼は何も悪くない。ただ自分の気持ちを正直に話しただけで、怒りをぶつけるのはお門違い。頭ではそう理解していても凜の言葉は止まらなかった。
「あんたはさ、自分がどんだけ恵まれてるかわかってないんだよ。医学部行けるくらい頭良くて、その上お菓子作りの才能まであって、そんだけ何でもできたら現実でだってチャンスあるよ。なのにあんたは、最初から何にも挑戦しようとしないで、いつまでも夢の世界なんかに閉じこもってるんだもん。それってズルいよ!」
「ズルい……?」
「そうだよ! ズルいよ! あんたは夢なんかに頼らなくたっていろんなこと叶えられる。だったら現実で頑張ればいいじゃん! あたしと違って、あんたはいろんなもの持ってるんだから……」
怒りを帯びていた言葉が弱まり、代わりに別の感情が滲んでいく。今、この瞬間ほど、凜は自分を惨めに感じたことはなかった。
「……最初にあんたの話聞いた時、ちょっとあたしと似てるかもって思った。学校で一人だったこととか、自分のやりたいことがわかんないとことか、同じだなって……。
でも、実際は全然違った。あんたは自分のやりたいことを見つけて、それを叶えられるだけの才能もあるから、夢遊界でやりたいことをして生きればいいなんて言える。
でもね、中にはあたしみたいに、やりたいことも得意なことも、何にも見つからない人間もいるの。あんたみたいな天才肌のヤツには、わかんないかもしれないけど……」
苦笑交じりに言って瞬きをした時、凜の頬を冷たいものが伝うのを感じた。咄嗟に顔を背けたものの、きっと史也は見てしまっただろう。怒って喚いた後に泣くなんて、本当、あたしって情けない。惨めさが上書きされ、いっそ滑稽に思えるほどだった。
「……あんたがあたしとは違う人間だってこと、よくわかった。あたしみたいなヤツの気持ちなんて、あんたには絶対わかんないよね。だからもうおしまい。あんたはあたしのことなんか忘れて、ずっとここで自分の好きなことして生きてればいいよ。あんたはもう、現実のことなんかどうだっていいんだもんね……」
現実を
だけど実際には、凜は自分という存在の空虚さを思い知らされただけだった。やりたいことも目指す夢もない。そんな人間にとっては、現実世界も夢遊界も同じ針の
凜はベンチから立ち上がると、史也に背を向けて広間を歩き去った。引き留められるかと思ったが、史也は何も言ってこなかった。
凜はそのことに安堵した。これ以上彼と話を続けていたら、自分が壊れてしまうような気がした。
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