戻らない時

 午後四時過ぎ、病院の四〇七号室内。今日も静まり返った病室の中、侑李は凜のベッドの傍らにある丸椅子に腰掛けて項垂れていた。

 凜が交通事故に遭ってから丸一日が経ったが、昨日から自分がどんな風に過ごしていたのか、侑李はほとんど覚えていなかった。学校で授業を受けていても、友達と話していてもずっと上の空で、気がつくと凜のことを考えていた。大量のチューブにつながれて寝台に横たわった凜の姿が頭から離れず、学校が終わるや否や病院に駆けつけた。だけど、凜の容態に変化はなく、いつ目を覚ますかはわからないらしい。頭を打つ怪我をしたのだからそんな急に回復するはずがない。そうわかっていても、知らせを受けた侑李は落胆を抑えることができなかった。


 久美とは学校で顔を合わせた。さすがの久美も今回ばかりは悪いと思ったのか、凜を心配するようなことを言っていたが、侑李は全く相手にしなかった。そもそも凜が事故に遭う原因を作ったのは久美なのだ。今さら謝って許してもらおうなんて虫が良過ぎる。久美が何を言おうが、侑李はもう久美とは関わらないでおこうと決めていた。


 その時、背後から引き戸が開く音が聞こえて侑李は振り返った。病室の入口に、赤いハンドバッグを持った一人の女性が立っている。服装はグレーの長袖のワンピースで、膝丈で、腰の辺りで絞ったデザインをしている。長い髪は茶色く染められ、毛先が軽くカールしていた。そうしたファッションや髪型は若々しかったが、目尻には皺が刻まれ、頬のたるみも目立っている。実際の年齢は四十代くらいだろうと侑李は思った。


 女性は不安げに病室内を見回し、侑李と目が合うと何となくお互いに頭を下げた。ほぼ同じタイミングで顔を上げると、女性は侑李の背後にある寝台に気づき、そこに横たわる凜を見た瞬間にはっと息を飲み込んだ。そのまま目を見開いて凜を凝視する。それを見て、侑李は女性が誰であるかを悟った。


「あの……すみません。もしかして凜のお母さんですか?」


 侑李がそっと女性に尋ねる。女性が侑李の方に視線を戻した。


「そうだけど……あなた、凜の友達?」


「はい、芳賀侑李と言います」


「そう、あたしは葉月凪沙。こういう時って、普通は何て言うのかしらね? 娘がいつもお世話になってますとか? 何せあたし学がないから、そういう世間の常識とか疎くって」


 凪沙は自嘲したように笑ったが、侑李はとても笑う気にはなれなかった。

 侑李は凪沙が座れるよう、部屋の端から丸椅子を持ってきて自分の隣に置いた。凪沙は椅子に腰を下ろし、ハンドバッグを膝の上に置いてから改めてベッドに横たわる凜を見つめた。


「……まさか、こんなことになっちゃうなんてねぇ」


 凪沙が呟き、侑李は彼女の方を見た。厚めの化粧で隠してはいたが、近くで見るとその顔は思ったよりも老けているのがわかった。コンシーラーを塗っていてもわかる目の下のクマは、疲労と寝不足から来るものだろうか。


「さっき警察から連絡があって、凜が事故に遭ったって聞いてね。もーびっくりしたわ。本当は昨日から連絡くれてたらしいんだけど、あたしその時間スナックのパート行ってて、帰ったら疲れてそのまま寝ちゃったから全然気づかなかったの。それで昼頃起きたら着信が大量に入ってるのに気づいて、慌てて用意して飛んできたってわけ。でも、正直今も信じられないわ。何でうちの子に限ってこんなこと……」


 凪沙が顔を歪めて呻くように言う。侑李は答えられなかった。事故の原因が自分や久美にあるなんて、どうして正直に言うことができるだろう。


「……さっき先生から話を聞いてきたの。凜、いつ意識が戻るかわからないんだってね。目を覚ますのにどれくらいかかるのかって聞いても、はっきりしたことは何も教えてもらえなくて……」


 凪沙が一人で話を続ける。侑李は口を挟む気にはなれず、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。


「……なんか、ホント信じられないわよねぇ。昨日までは普通に話してたのに、いきなりこんな風になっちゃうなんて……。でもよく考えたら、あたし、今までだってほとんど凜と話なんかしてこなかったんじゃないかって思うのよ。学校のこととか、友達のこととか、あの子が普段どうしてるかなんて全然気にしてなくてね。あたしが余裕なかったってのもあるし、もう高校生なんだから、学校であったこといちいち親に話さないだろうって思ってたのもあるわ。でも……こんなことになるなら、もっとちゃんと時間取って、話しとけばよかったわね……」


 凪沙が自嘲したように笑う。侑李は何も言えなかった。震える両手を硬く握り、眉を寄せてベッドに横たわる凜を見つめる。その間にも凪沙は一人で滔々と喋り続けていた。


「バカよねぇあたし。自分のことでいっぱいになって子どものことほったらかして、それで今になって後悔してるんだもん。あの子は何にも言わなかったけど、たぶんあたしのこと恨んでたと思うわ。大学に行かせてやるだけの収入もない、話もろくに聞いてやれない……。ホント、ダメな母親よねぇ……」


 つらつらと悔恨を重ねる凪沙の言葉を聞いているうちに、侑李はだんだん居たたまれなくなってきた。自分を責め続ける凪沙を見ているのが辛いという理由もあったが、それ以上に自分が情けなかった。


 侑李は凜の家庭のことを何も知らなかった。母親が忙しいことも、そのために凜が寂しい思いをしていたことも、凪沙に聞かされるまで少しも知らなかった。

 でも凛は、本当は誰かに話したかったのではないだろうか。母親の不在がちな家庭に寂しさを感じていることを、誰かにわかってほしかったのではないだろうか。


「……あたしもです」

 

 気がつくと侑李は言っていた。凪沙によって語られた後悔の数々は、今や侑李自身の悔恨となって口から言葉が零れ出る。


「あたしも……凜のこと全然知らなかった。話すことって言ったら好きなアーティストのことばっかりで、それ以外のことは何にも……。進路のこととか、家族のこととか、もっと大事な話があったはずなのに……何でちゃんと話してこなかったんだろ……」


 一緒に過ごした時間は長いものではなかったけれど、それでも凜のことはよくわかっているつもりだった。好きなものや楽しいことを共有できる、心でつながっている友達だと思っていた。

 だけど、そうではなかった。自分は凜について、本当は何も知らなかったのだ。


 話しながら後悔と情けなさが込み上げてきて、侑李は思わずしゃくり上げていた。零れ落ちる涙を手で拭いながら、胸の内で何度も詫びる。凜、ごめんね。凜のこと、何もわかってなくてごめんね――。


 俯きながら嗚咽を漏らす侑李を、凪沙はじっと見つめていた。侑李は何かを言われることを覚悟したが、凪沙は無言のままだった。しばらくそうしていた後、やがて凪沙がふっと息を漏らして口元を緩めた。


「……こういうのって、だいたい事が起こってから後悔するのよね。普段は時間なんていくらでもあるって思ってるけど、本当はそうじゃないってこと、あたしもやっと気づいたわ。ちゃんと話せる時に話しとかないと、いつどうなるかなんてわかんないものね……」


 そう言った凪沙の言葉は、凜だけではなく、誰か別の人間のことを差しているようにも思えた。

 侑李は少し気になったが、さすがに初対面でそれを聞き出すことはできなかった。ようやく収まってきた嗚咽を飲み込みながら、涙で滲んだ瞳で凜を見下ろす。凪沙は表情こそ微笑んでいたものの、きっと自分と心境は同じなのだろうと思った。


「……ただ帰ってきてくれたら。それだけで充分なんだけどね……」


 最後にそう呟いた凪沙の言葉が、病室の白い床に溶けていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る