惑う心

 ベッドから起き出し、いつの間にか着ていたパジャマから元の服に着替えたところで、凜はのろのろとホテルの部屋から出てきた。別に行くところがあったわけではない。ただ部屋に一人でいても暗い気分になるだけだから、外に行った方がマシだと思っただけだ。


 エレベーターで一階に降り、扉の先に広がる光景を見回す。大理石の床、天井からぶら下がるシャンデリア、太くどっしりとした柱、二階へと続く広々とした階段、フロントの横にある大きな観葉植物、座り心地の良さそうな肘掛け椅子や革張りのソファー。部屋と同じようにロビーも豪華で立派だったけれど、やはりそこに人の姿はない。


(いくらすごいホテルだからって……あたし一人じゃつまんないよね)


 内心でそう呟きながら、凜は小さくため息をついた。豪華なホテルに泊まりたいという願いは叶えられたものの、それで心が満たされた感覚は全くない。侑李が一緒にいれば、ホテル内を探検しながらはしゃぐこともできただろうが、一人ではそんな気分にもなれない。いくら好きな夢を見られたところで、一人では楽しくも何ともないのだ。どうしてあの男はそんな簡単なことがわからないのだろう。


「おっ、いたいた!」


 悶々とした気持ちで凜がそう考えていると、今まさに頭に浮かべていた本人の声が後ろから聞こえてきた。凜が顔をしかめて振り返ると、昴がにこやかに片手を振りながらこちらに近づいてくるのが見えた。昨日と同じ、茶色のジャケットにカーキのズボンを身に着けている。


「いやー心配したよ。急に電話切っちゃうんだもんなぁ。何度かけ直しても繋がらないし。まぁでも、そこはさすが何でも願いが叶う夢遊界だな。俺が凜に会いたいって思ったら、ちゃんとこうして引き会わせてくれたんだからさ!」


 昴が笑いながら陽気に言ったが、凜は全く笑う気にはなれなかった。疲れた顔でため息をつき、素っ気ない口調で続ける。


「……あたしはあんたに会いたいなんて思ってなかったけど。っていうか気安く名前で呼ばないでくれる?」


「まぁそういうなよ。少なくとも、誰かに会いたいとは思ってたんだろ? そうでなきゃわざわざ部屋から出てこようなんて思わないもんな」


 訳知り顔で言う昴の態度に凜は腹立ちを覚えたものの、事実だったので言い返せなかった。だけど、こんな軽薄な男に気持ちを言い当てられるのも癪で、次第に怒りを抑えられなくなっていった。


「……昨日から思ってたけど、あんたってホントに無神経! あんたはこの世界を楽しめばいいなんて言ってたけど、あたしがいつまでも目を覚まさなかったら、きっとみんな心配する。なのにみんなのことほったらかして、いつまでも夢の世界で遊んでればいいなんて、バッカじゃないの!?」


 一息にそうまくし立てると、凜は肩を怒らせてホテルの外に出ようとした。この男と一緒にいても神経を逆なでされるだけだ。それならまだ史也の店にでも行った方がいい。


「……夢遊界ってさ、誰でも来れるわけじゃないんだ」


 昴が不意に言った。その声色がいやに真面目なものだったので、凜は思わず足を止めた。振り返ることまではしなかったが、それでも昴の視線が注がれているのがわかった。背中越しに、昴の真剣な声音が続く。


「夢遊界に来た奴は、みんな現実の世界で何らかの生きづらさを感じてる。親と上手くいってなかったり、学校で居場所がなかったりしてね。そいつらはみんな苦しんでる。楽しいことなんか何にもないし、自分が何のために生きてるのかもわからずにいる。

 だけどさ、この世界なら、そんなつまらないことで苦しむこともないんだ。ここなら自分に干渉する親もいないし、自分をいじめてくる奴もない。誰の目も気にすることなく、自分の好きなように生きることができる。

 夢遊界ってのはさ、そういう奴らの居場所なんだよ。この世界に来たってことは、君も何か生きづらさを感じてたんじゃないのか?」


「それは……」


 反論しようとしたものの、凜の口から否定の言葉は出なかった。現実の世界で、ただ日々を消化していた自分の姿が蘇る。

 しばらく沈黙が続き、それから再び昴の声がした。


「俺はただ、この世界に来た奴らに幸せになってほしいだけなんだ。無理に現実の世界に戻らなくても、夢遊界で幸せに生きられるならここにいればいい。俺が君にこの世界にいればいいって言ってるのは、そういう意味なんだ」


「でも……」


 どう言葉を続けてよいかわからず、凜は困惑して視線を下げた。現実で居場所がない人でも、夢遊界ならば自分らしく生きられる。だからこそ夢遊界はその人達の居場所になり得る。昴のその言葉はわからないでもないが、今も現実の世界で自分を待ってくれているであろう侑李達のことを思うと、凜はそう簡単に彼の考えを受け入れることはできなかった。


「まぁどっちにしても、今すぐ現実に戻るのは無理だからさ。ここは気分を変えて、一つ君の願いを叶えてみることにしようか。何かないか?」


「そんな急に言われても……」


「別に大層なことじゃなくたっていいんだよ。あれが食べたいとか、ここに行きたいとか、小さなことでいい。何か一つくらいあるだろ?」


 昴に尋ねられ、凜は改めて考えてみた。自分がやってみたかったこと、現実の世界ではできなかったこと――。


「……レインボーランド」


 気がつくと凜は言っていた。昴が「何だそれ?」と言いながら首を傾げる。


「あたしの地元で、最近オープンした遊園地のこと。あたし、絶叫系好きだから行ってみたかったんだけど、一緒に行く人いなくて……」


 最初は中学の友達を誘ってみたが、塾やクラブで忙しいからと断られてしまった。他に誘える相手といえば侑李くらいだったが、侑李は絶叫系が好きではないのでそれも無理だった。だから久美がチケットの話をしていた時、内心では羨ましいと思っていたのだ。


「でも、遊園地なんてさすがに無理だよね。いくら夢だからって……」


 凜がそう呟いた時だった。突然視界がぱっと明るくなったかと思うと、軽快で賑やかな音楽が耳に飛び込んできた。凜が驚いて顔を上げると、いつの間にか開かれていたホテルの扉の先に、テレビや雑誌で何度も目にした虹色のエントランスが見えた。


「……嘘」


 それ以上の言葉が続かず、凜は目を丸くして目の前の光景を見つめた。虹色の風船で作られたアーチの下で、カラフルな衣装を纏ったピエロがジャグリングをしている。その向こうには虹色の観覧車や、白いレールを全速力で駆け抜けていく虹色のジェットコースターが見える。その鮮やかな色使いや明るい音楽は、ここが夢の中であることを忘れそうになるほどリアルだった。


「言っただろ? ここは何でも願いが叶う場所だって。遊園地だってどこだって、夢遊界なら一瞬で行けるんだよ」


 後ろから昴の声が聞こえて凜は振り返った。だが、そこにいる彼の姿を一目見た途端、さらに目を丸くして息を呑んだ。


「あんた……、鷹……!?」


 そこにいたのは、あの明るい茶髪の昴ではなく、黒髪の鷹の姿だった。何が起こっているのか理解できず、凜は昴だか鷹だかわからないその男の姿を凝視した。そんな凜の困惑を面白がるように、鷹の顔と髪をした男が悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「驚いたかい? せっかくに遊園地行くなら、好きな男とのデートっていう設定の方がいいと思っててね。俺が相手じゃないのは残念だけど、ここはサービスってことで、その鷹って奴になったつもりで君と一緒にいることにするよ」


 軽薄なその口調から、凜はこの男が昴であることを理解した。どうせまた、自分の見ていないところで髪を黒くするようにとでも願ったのだろう。


「……別にそんなこと頼んでないし。それにあんたと鷹じゃ全然性格違うから。髪染めただけで、あんたに鷹の代わりなんかできるわけないでしょ」


 凜はつんと横を向いて言った。いくら顔が似ていたって、昴と鷹は全然違う。鷹はこの男みたいに軽くないし、もっと優しいし、何よりちゃんと現実を生きてる。こんな夢の中でふらふらしている男とは違うのだ。


 だがその時、不意に凜の肩に手が置かれたかと思うと、そのまま強い力で引き寄せられた。凜が息を呑んで顔を上げる。鷹の顔が目の前にあり、自分の方をじっと覗き込んでいた。


「……そんなこと言わないで。せっかく来たんだから楽しんでいこうよ――葉月」


 懐かしい呼称でそう呼びかけられ、凜は一瞬、息が止まりそうになった。目を見開いて鷹の顔を見返す。鷹は優しく微笑みながら、凜の肩を抱いてさらに引き寄せた。そのままキスをされるのではないかと思えるほどに鷹の顔が接近する。


 今までになく近くにある鷹の顔を前にして、凜は胸が高鳴るのを抑えられなかった。身体が熱くなり、顔が火照っていくのを感じる。この男は鷹じゃない。鷹の振りをした昴なのだ。頭ではそう理解していても、こんなにも至近距離で見つめられるとだんだん頭がぼうっとしてきて、本当に鷹に抱き寄せられたような錯覚を抱いてしまうのだった。

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