第四話 秘められた願い

醒めない夢

「うーん……」


 凜は小さく唸りながらごろりと寝返りを打った。そろそろ起きなければと頭ではわかっているのに、どうしても身体が言うことを聞かない。そうこうしているうちに時間が経ち、結局ギリギリになって慌ててベッドから飛び出すのが凜の日常だった。


 だけど、今日はいつもと違う。急き立てるようなスマホのアラームが鳴らないし、まるで羽毛にくるまれているような不思議な心地よさがある。母が珍しく布団を干したのだろうか。

 凜はそんなことを思いながら、目を瞑ったまま手だけでスマホを探した。だが、いつもスマホが置いてあるはずの場所を探っても何もない。


(……あれ? どこ行ったんだろ。どっかに置き忘れたのかな)


 眠い目を片目で擦りながら、凜はゆっくりとベッドから身体を起こした。ぼんやりとした頭で部屋を見回すが、そこでようやく何かがおかしいことに気づいた。


「……何、この部屋」


 そこはホテルの一室のようだった。広々とした部屋の中には、凜の寝ている大きなベッドが一つと、ぴかぴかに磨き上げられた大理石のテーブル、それに思わず寝っ転がりたくなりそうな赤茶色の革張りのソファーが置かれている。床には真っ白な絨毯が敷かれ、下ろしたてのように染みも埃も一切付いてはいなかった。入口の扉もやはり白で、把手や蝶番だけが金色をしてきる。家具や調度品の一つ一つが洗練されていて、まるでセレブ御用達のホテルのようだった。


「何これ……。何であたしこんなとこにいるの?」


 ベッドに面した大きな窓からは陽光が差し込み、暖かな光で包みまれた部屋はこの上なく快適な空間に思えたが、日常からかけ離れすぎてかえって凜の不安を煽った。高校生の自分がこんな高そうな部屋に泊まれるわけがない。まして一人で泊っているなんて絶対おかしい。もしかして自分は、誰かに眠らされてここに連れてこられたのだろうか。凜はそう考え、眠る前に自分の身に起こったことを思い出そうとした。


 その時、部屋のどこかから着メロの音がして、凜はびくりとして肩を上げた。そろそろと音の方に視線をやると、テーブルの上の携帯電話が震えているのが見えた。さっきから探していた携帯電話。何だ、あんなところにあったのか。凜は安堵したように息をついたが、すぐにまたおかしいことに気づいた。自分の携帯は赤のスマホのはずなのに、今テーブルの上で震えているのは銀色のガラケーだ。凜のものではない。あるはずのものがなくて、ないはずのものが目の前にある。謎めいた事態をどう理解すればよいかわからず、凜はますます頭が混乱してきた。


 とりあえず音を止めようと、凜はふらふらとベッドから立ち上がった。テーブルに近づき、携帯を取り上げて開く。画面を見ると知らない番号が表示されていた。凜は深く考えないまま通話ボタンを押した。


「……もしもし」


『おっ、出てくれた! 嬉しいねぇ。ちょっと会わない間に俺が恋しくなったのかな?』


 その声を聞いた途端、凜は急に寝覚めが悪くなって眉をひそめた。電話口から聞こえてきたのは、意味不明なことばかり言っていたあのキザな男、昴のものだった。


『いや、あれから時間的にも一日経ったし、そろそろ連絡してもいい頃かと思ってさ。どう? 夢遊界での生活も悪くないだろ?』


 夢遊界という言葉を聞いたことで、凜はようやく自分が置かれている状況を思い出した。

 そうだ、自分は現実の世界で交通事故に遭って、それでこのおかしな世界に連れてこられてしまったのだ。昨日(という言葉が正しいかはさておき)、自分は夢遊界をしばらく探索し、疲れたところで豪華なホテルに泊まりたいと願った。すると望んだ通りのホテルが目の前に現れ、凜は導かれるようにその中に入っていった。その先のことはよく覚えていないが、今、自分が高級ホテルの室内にいるということは、昨日入ったあのホテルで一泊したということなのだろう。

 そこまで理解することはできても、凜は少しも安心した気持ちにはなれなかった。むしろ事態が明確になったことで、心が急速に重く沈み込んでいく。


『おーい凜、聞いてるか? もしもーし!』


 昴の声はなおも聞こえていたが、凜は返事をする気にはなれなかった。虚ろな瞳で前方を眺める。視界に広がる高級ホテルの一室。現実の自分では到底泊まれない、まさしく夢のような場所。だけど、今の凜にとって、その事実は何の慰めにもならなかった。目が覚めてもそこにあるのは夢。現実とはかけ離れた虚構の世界。


「……夢じゃなかったら、よかったのに」


 凜はそれだけ言うと、悪夢を振り払うかのようにぷつりと電話を切った。

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