届かない声

 史也の店を後にし、凜は再びぶらぶらと歩き始めた。いつの間にか夕方になっていたようで、頭上には黄昏色の空が広がっている。いやでも、空が黄昏色をしているからといって、現実の時間も夕方かどうかはわからない。実際には事故にあってから一時間も経っていなくて、頭上に広がっているのは青空かもしれない。あるいはすでに夜になっていて、月が葬儀のようにしめやかに世界を照らしているかもしれない。


(お母さん、もう家帰ってるのかな……。あたしが病院運ばれたって聞いて、どんな顔してるんだろ……)


 そんなことをぼんやりと考えながら凜は歩き続けていた。だけど行く当ても帰る場所もないこの場所では、これからどうすればいいのかさっぱりわからない。


 凜は一旦立ち止まると、Gジャンのポケットから例の携帯電話を取り出して見つめた。芝居がかった昴の言動が脳裏に蘇る。


(……困ったことがあったら電話しろなんて言ってたけど、あいつに電話したところで何か変わるわけでもないし……)


 しばらく携帯電話を見つめていたものの、凜は結局それをポケットに戻した。


(あんなヤツに頼ったってしょうがないし、どうせ夢なんだったら、あたしの好きなようにすればいいよね)


 吹っ切れた思いでそう考えると、凜はそっと目を閉じた。夢遊界は、自分の見たい夢を見られる場所。そう語った昴の言葉を思い出し、試しに何かを願ってみることにする。


(今日はいろんなことあって疲れたから、ゆっくり休めるとこに行きたいな。で、どうせ行くなら、すっごい高級なホテルに泊まりたい!)


 凜がそう願った次の瞬間、不意に周囲が暗くなったような感じがした。ゆっくりと目を開けると、辺りは実際に暗くなっていて、夜空の下で金色にライトアップされた街並みが広がっていた。広い円形の広場の周りを囲むように箱型の建物が並び、まるで別世界のように煌びやかな様相を醸し出している。


 凜は感嘆の息を漏らしてその壮麗な光景に見惚れた。まるで外国のセレブ御用達のホテル街みたいだ。


 その時、後ろからぎいと扉が開く音がして、凜はその方を振り返った。見ると、この一帯の中でもひときわ豪華なホテルが目の前にそびえていた。入口の扉は凜に向かって開かれており、凜を迎え入れようとしているようだ。


(これ、もしかして、あたしの願いを叶えてくれたってこと?)


 昴が言っていた。夢遊界では、自分が好きな夢をいつまでも見ていられると。さっき史也の店で美味しいパフェを食べたのも、豪華なホテルが目の前に現れたのも、自分がその夢を望んだから叶ったということだろうか。


(この世界にいれば、何でも自分の思い通りになる……。進路のことで迷うことも、友達のことで悩むこともなくなる……)


 ふと心に浮かんだそんな考えに気づき、凜は慌てて頭を振った。危ない危ない、まんまとあの男の言葉に乗せられるところだった。いくら望みが叶うと言ったって、所詮は夢の中のこと。目が覚めればそれでおしまいなのだ。昴も史也も、長くこの世界にいるせいでそんな当たり前のことを忘れてしまっている。

 でも自分はそうはならない。今すぐには無理かもしれないけど、いつか必ず現実に帰る。


 凜はそう決意すると、開かれたホテルの扉に向かって歩いて行った。


 


 


 


 病院の待合室。診療時間の終わりを目前にしてしんと静まり返ったその場所に、急にどたどたとした足音が飛び込んできた。廊下を歩く看護師達が何事かという顔をして入口の自動ドアの方に目をやる。高校生だろうか、制服姿の青年が息せき切って駆け込んでくるのが見えた。


「あの! 葉月……葉月凜がここに運ばれたって聞いたんですけど!」


 青年が呼吸を荒くしながら尋ねた。受付の女性は眉間に皺を寄せ、人差し指を口元に当てて言った。


「他の患者さんもいらっしゃいますので、病院内ではお静かに願います」


「あ、すいません……」


 青年が小声になって頭を書く。受付の女性は通常の応対に戻って続けた。


「葉月さんなら、先ほど手術が終わったところです。今は四階の病棟にいらっしゃいます。あと十分ほどで面会時間は終了しますが、どうされますか?」


 青年は迷いなく面会すると答えた。女性から病室の場所を聞くと、青年は何度も頭を下げてエレベーターの方へと向かった。


 




 面会時間が間もなく終わるということもあり、院内にほとんど見舞客の姿はなかった。


 凜の病室は四〇七号室。東側の病棟の一番奥の部屋だった。青年が扉を開けると、部屋の中に四つほどベッドが並んでいるのが見えた。うち三つはカーテンで仕切られていたが、窓際のベッドだけはまだ外から見える状態になっており、その前に黒いライダースジャケットを着た女の子の姿があった。丸椅子に腰かけ、ベッドの方に身体を向けて項垂れている。青年は彼女の方に近づいてそっと声をかけた。


「芳賀……だよな?」


 女の子が振り返った。赤く泣き腫らした目のまま青年を見上げる。


「そうだけど……。えっと、うちの高校の人?」


「うん。たぶん話すの初めてだと思う。俺、柏木鷹行。葉月と中学が同じだったんだ」


「ああ、じゃあ、あんたが鷹……」


 侑李が納得したようにゆっくりと頷いた。凜が自分の話をしたことがあったようだ。


 鷹はしばらく侑李を見つめ、それからベッドの方に視線を移した。


 凜は頭に包帯を巻かれ、口には酸素マスクが取り付けられた格好で眠っていた。頭側に設置されたモニターには、血圧か脈拍かわからないが何かの数値が示され、規則正しく音を立てている。医療ドラマなどで見たことのある光景。だけど、自分の知っている人間がそのシチュエーションの中にいるなんて、鷹は今でも信じられなかった。


「……さっき、手術が終わった後、お医者さんがいろいろ話してくれたの」


 侑李が凜の方を見つめたまま呟く。鷹は侑李の方に視線を移した。


「凜、車に撥ねれらて頭打って、それで脳挫傷のうざしょうっていうのになったんだって。とりあえず手術は無事に終わったけど、意識が戻るかどうかはわからないって……」


「そっか……」


 鷹はそう言って再び凜の方に視線を移した。その顔は眠っているように穏やかで、そんな深刻な状態に陥っているとはとても思えなかった。


「……あたしが悪いの」


 侑李が不意に呟いた。鷹は彼女の方を見た。俯いた侑李の表情は見えなかったが、それでも肩が震えているのがわかった。


「……あたし、凛と二人でシゲルのライブに行ったんだ。そしたらそこに久美が来て、一緒に観ようって言い出して……。あたしがあそこではっきり断っとけば、凜がこんな目に遭うことなかったのに……」


 そこで堪えきれなくなったのか、侑李が両手に顔を埋めて嗚咽を漏らし始めた。

 鷹は久美と直接話をしたことはなかったが、それでも久美の噂はよく耳にしていた。いい方の噂は、アイドル顔負けの美少女だということ。そして悪い方の噂は、アイドル以上に性格がキツいということ。女子の関係のことは鷹にはよくわからなかったが、凜がクラスで孤立していたことを思えば、この三人の間に何かややこしい事情があったことは想像できた。


「凜……戻ってくるよね……? このまま二度と目を覚まさないなんてことないよね……?」


 嗚咽混じりに侑李が零す。それは鷹に尋ねているというよりは、ただ言わずにはいられないから言っているだけのように思えた。


 鷹は何とも声をかけられず、困惑した顔で侑李の姿を見つめた。それから凜の方に視線を移す。言葉はなくても、彼が今感じている心境は、侑李とよく似たものだった。


 最後に凛と会った時の光景が蘇る。学校からの帰り道、進路や家庭について話をした。普段あまり自分のことを話したがらない凜が、あの時だけは赤裸々に胸の内を語ってくれた。

 それが鷹には嬉しかった。凜が自分のことを話してくれたことが、それ以上に、悩みを打ち明ける相手として自分を選んでくれたことが、本当に、嬉しかった。


「俺だって……困るよ」


 気がつくと鷹はそう呟いていた。顔をしかめ、食い入るように寝台に横たわる凜の姿を見つめる。侑李のように泣ければよかったのだが、涙は出ず、代わりに絞り出すような言葉が漏れた。


「このままあいつに会えなくなったら……俺、絶対後悔する。あいつの相談に乗るとか言って、結局何も聞いてやれてないし……」


 中学の頃、凜はよく笑っていた。友達と他愛もない話をして、楽しそうにしている姿を鷹は何度も見かけた。鷹はそんな凜の姿を見るのが好きで、凜が楽しそうにしていると、自分もつい笑顔が零れていた。


 だけど高校に進学してからは、凜はほとんど笑うことがなくなった。いつも一人で行動して、仏頂面を隠そうともしない。鷹は凛とは別のクラスだったものの、凜の変化には早くから気づいていた。

 あいつ、いったいどうしたんだろう。何かあったのかな。そうやって凜のことを気にかけながらも、鷹が行動を起こすことはなかった。凛とはクラスが違うし、男子の俺が首を突っ込むことじゃない。そう考えて何もしない方を選んだのだが、今はその選択を後悔していた。正面切って助けることはしなくても、せめて話を聞くくらいはしてやればよかった。


「葉月……目を覚ましてくれよ……」


 凜のことをもっと知りたい。もっと話をして、お互いの知らないことを教え合いたい。悩みがあるなら聞いてやりたいし、力になりたいと思っていることを伝えたい。

 そしていつか、中学の時のように、他愛もない話をしながら笑顔を見せてほしい――。


 そんな鷹の届かぬ想いは、結局凜に伝えられることはなく、掬い上げた水が手から零れるように、心の奥底へと落ちていった。

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