相容れない心

 カウンター前のスツールに腰かけたところで、凜は黒板に書かれたメニューを見やった。迷った末、イチゴのパフェとコーヒーを注文した。史也は生真面目に復唱すると、奥にある厨房へと引っ込んでいった。


 食器のかちゃかちゃという音を耳にしながら、凜は改めて店内を見回した。ゆっくりと音を立てながら回る、天井からぶら下がったシーリングファン。分厚い外国の本が並ぶ、入口付近にある木製の本棚。洒落たデザインのカップや皿が等間隔に飾られた、カウンターの内側にある棚。その光景は現実のカフェそのもので、自分が今夢の中にいることなど忘れてしまいそうだった。


 やがて史也がパフェを持って戻ってきた。たっぷりと絞った生クリームの上にふんだんにイチゴを盛り付け、さらにアクセントとしてブルーベリーをあしらっている。三角形にカットされたクッキーが斜めに刺さり、真ん中のバニラアイスの上にはミントの葉がちょこんと乗っている。見るからにSMS映えしそうなそのパフェを前に、凜は思わず感嘆の息を漏らした。


「お飲み物も今お持ちしますので、少しお待ちください」


 史也はそう言って再び厨房の奥に姿を消した。凜はうっとりしてパフェを眺めながら、これを侑李とシェアできたらどんなにいいだろうと考えた。


 少しして、史也が温かいコーヒーを入れて戻ってきた。凜はそれを一口啜ると、パフェの生クリームとイチゴのソースをスプーンで掬って口に運んだが、それが舌に触れた瞬間、衝撃に目を見張った。


 もちろん、生クリームが舌の上で溶ける感覚や、酸味のあるソースがつんとくる感覚が実際にあったわけではない。それでも凜は、あたかもその感覚を実際に味わっているような感覚を味わうことができた。生クリームの甘みとソースの酸味が口の中で絶妙に絡み合い、それでいてくどくなく舌の上で溶ける。イチゴとブルーベリーの程よい酸味と甘みが、生クリームと混ざり合ってお互いの味を引き立てる。さくさくとしたクッキーの触感が歯と耳に心地よい。

 そんな感覚を、凜は実際に味覚があるかのように体験することができた。ちょうど映画の中で、主人公が恍惚した表情で食事をしているシーンを見て、自分も美食を味わっている気分になるように。


 凜は夢中になって次々とパフェを口に運んだ。器はあっという間に空になり、凜はナプキンで口元を拭いながら満足そうに息を漏らした。


「美味しかったー……。あたし、パフェ好きだからよく食べるんだけど、こんな美味しいの初めて! あたしと同じ年くらいなのにこんなの作れるなんて、あんたすごいね!」


「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえて、僕も嬉しいです」


 史也が照れくさそうに笑った。凜はそんな彼の姿を見て、お金などいらないと言った史也の言葉は本心なのだろうと思った。自分が作ったスイーツでお客が笑顔になる、それだけで彼には十分なのだ。


 残っていたコーヒーを啜り、落ち着いたところで凜は史也に尋ねた。


「ところでさ、あんたもここにいるってことは……その、現実の世界で何かあったってことだよね?」


 凜が尋ねると、幸せそうだった史也の顔にふっと影が差した。皿を拭いていた手を止め、カウンターに視線を落として頷く。


「……ええ。もう随分前のことですから、あまり覚えてはいませんが……」


「そっか。あたしはついさっきここに来たばっかりなんだけど、帰りたいって思わないの?」


「まさか。現実なんて……二度と戻りたいとは思いません」


 史也が吐き捨てるように言った。彼にしては強い口調だったので凜は面食らったが、納得できずになおも言葉を重ねた。


「でもほら、友達とかいるでしょ? それに家族とか! あんたがいつまでもここにいたら、みんな心配するじゃないの?」


「友達などいません。それに家族だって……僕のことなど、とっくに忘れているでしょう」


 史也が小さく息をつき、憂わしげな表情になってかぶりを振る。それを見て凜は困惑した。彼は現実の世界に全く未練がないようだ。でも、現実の自分がどうなっているかもわからないのに、この世界で呑気にスイーツなど作っていられる意味が凜にはわからなかった。


 凜の困惑を見て取ったのか、史也は顔を上げ、悲しげな笑みを浮かべて言った。


「……あなたは恵まれていたんですね。友達や家族に囲まれ、幸せな生活を送っていた……。

 だけど僕は違う。僕は現実の世界に居場所なんかなかった。だからこの世界に来られた時は嬉しかったですよ。ここなら誰にも咎められず、自分の好きなことをして生きていられる。僕にとっては、夢遊界だけが、ありのままの自分でいられる場所なんです」


 そう言った史也の表情が何だか痛々しくて、凜はそれ以上彼を見ていることができなかった。気まずさをごまかすように視線を落とす。彼の言葉は本心なのかもしれないけれど、凜にはその感覚が理解できなかった。


 史也は誤解しているが、自分だって、現実の世界に居場所なんかなかった。友達はほとんどいなくて、家族とはいつもすれ違い。そんな生活が幸せだったはずがなく、史也と状況は似たようなものだ。

 だけどそれでも、自分には待っていてくれる人がいる。侑李や鷹、それに母の凪沙。彼らのことを全て忘れて、いつまでも夢の世界に留まりたいとは凜は思わなかった。


「……ごちそうさま」


 凜はそれだけ言うとスツールから立ち上がり、そのまま店を出て行こうとした。これ以上史也と話をしていたら、自分の方が間違っていると考えてしまいそうだった。


 史也は引き留めなかった。彼もまた、凜が自分とは違う人間であることを感じ取ったのかもしれない。


 ドアに手をかけ、凜は少しだけ立ち止まったが、すぐにドアを開いて店を出て行った。

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