もう一人の住人

 昴と別れ、凜はあてもなく夢遊界の街を歩き続けていた。

 凜が今歩いているのはアーケード街のような場所で、年配の女性向けのブティックや、通路にはみ出そうなほどぎっしりと商品を並べたお菓子屋や、赤文字で「SALE」と書かれた広告を何枚も掲げ、ブランド物の鞄を叩き売りするかばん屋などがずらりと並んでいた。その光景は現実さながらで、もしそこに行き交う人の姿があれば、これが夢の世界だとはとても思えなかっただろう。


 だが、実際にはそこには人っ子一人おらず、店と商品が無言で顔を突き合わせているだけだ。泥棒にとっては収穫前の畑のような光景。でも、いくら商品をせっせと盗んだところでそれは結局夢でしかない。現実の世界で懐を肥やせるわけではないのだ。


 そんなどうでもいいことを考えていたところで、不意に一つの店が凜の目に飛び込んできた。染み一つない白い壁に、開放感あふれる大きな格子窓、シックな緑色のオーニング、温もりのある木造りのドア。その洒落た外観を見て凜は思わず足を止めた。ドアの把手の部分に視線をやると、やはり木製のプレートがかかっていて、丸っこい字でこう書かれていた。


『Cafe de Fumiya』


 外観から予想がついたが、ここはカフェなのだ。おそらくフミヤという人がマスターを務めているのだろう。ということは、凜がもしこの店内に入ったら、そこにはフミヤという店主がいるのだろうか。さっき昴としたように、言葉を交わすこともできるのだろうか。同じ夢を見ている者同士として。


 凜はその看板をじっと見つめた。お腹が空いた感覚はない。夢の中でそんな感覚が起こるのかどうかも凜はわからなかった。

 だが、誰かと話をしたい気持ちはあった。昴のようにこの世界にどっぷり浸かっている人間じゃなくて、もっとまともな、自分と同じような立場の人間と話がしたかった。このフミヤという店主がいつからここにいて、どの程度この世界を受け入れているかはわからないが、少なくとも昴よりはマシだろう。


 凜は少し逡巡した後、ドアの取っ手に手をかけてそれを開いた。


 


 店の扉を開けると、ふわりとした木の香りが漂ってきた。木造りの店内には、白いクロスのかけられたテーブルが三つとカウンター席があるだけで、そこにも客の姿はなかった。


 凜は様子を窺うようにしながらそろりと店内に足を踏み入れた。看板を出しているくらいだから営業していると思ったのだが、やはり誰もいないのだろうか。


「いらっしゃいませ」


 不意にカウンターの方から声がして、凜は驚いて飛び上がりそうになった。見ると、黒いエプロンをつけた青年がこちらに笑みを向けている。自分と同い年くらいだろうか。雨の日に窓辺で読書をしているのが似合いそうな、繊細な雰囲気の青年だった。


「……えっと、あなた、この店の人?」


 困惑しながらも凜は尋ねた。マスターということで、勝手に寡黙な渋いおじさまを想像していたのだが、目の前に現れた青年はそのイメージとは全く違っていた。アルバイトの人かもしれない。でも、夢の中でまでアルバイトをする人間なんているんだろうか。


 凜の困惑など露知らず、青年は陽光のような穏やかな笑みを浮かべて言った。


「はい。店主の桜庭史也さくらばふみやと言います。先ほどは驚かせてしまったようで、大変失礼しました。お客さんが来るのは久しぶりだったものですから……」


 凜はまじまじと青年の姿を見つめた。さくらばふみや。それではやはり、彼がこの店のマスターなのだ。自分と年が変わらない青年が店を構えているなんて凜には信じられなかったが、考えてみればこれは夢の世界なのだ。店を出すための資金も煩わしい手続きも必要ない。ただ自分が望みさえすればいいのだ。それでも、客の数までは思い通りにならないようだが。


「ううん、あたしこそごめん。さっきこの世界に来たばっかりで、本当に人がいるかわかんなかったんだ。あたしは葉月凜。お腹が空いたっていうよりは、誰かと話したいなって思って来たんだけど……」


「そうですか。もちろん僕は大歓迎ですよ。ああでも、せっかくだから何か召し上がっていきませんか? 僕、こう見えてもスイーツを作るのには自信があるんですよ。」


 史也は温和な笑みを浮かべると、片手で自分の細腕をとんとんと叩いた。スイーツ、と聞いて凜は心惹かれたものの、飛びつく気にはなれずにさらに尋ねた。


「うーん……。あたしもスイーツは大好きだけど、ここって夢なんだよね? 夢の世界で何か食べて、美味しいとか思うものなの?」


「現実の世界でいう『味覚』はありませんね。ただ、実際に味わうことはできなくても、美味しいという感覚を味わうことはできます。僕の言っていること、わかりますか?」


 凜は首を横に振った。史也は気を悪くした様子もなく頷いた。


「言葉で説明しても難しいでしょうね。でも、僕のスイーツを召し上がればすぐにわかると思いますよ」


「そう? じゃあせっかくだし何か頼もうかな。あ、でも、あたしお金持ってないんだった。鞄どっかにやっちゃってさ。さすがにお金払わないのはダメだよね?」


 凜は苦笑まじりに尋ねる。それはそうですよ、と柔和な口調で返されるかと思いきや、史也は意外そうに目を丸くして言った。


「お金なんていりませんよ。僕はただ、自分のスイーツを誰かに食べてもらえるだけで満足なんです。ここは夢の世界、売り上げのことなんて、何も気にする必要はないんです」


 史也のその一言に、凜は返す言葉を失った。昴だけじゃない。この青年もまた、完全に夢の世界に染まってしまっているようだ。

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