遠い現実

「ところで、君の名前は? せっかくこうして知り合いになれたんだから、まずは自己紹介といこうじゃないか」


 昴が凜に近づきながら軽い口調で声をかけてくる。そのまま肩を抱かれそうな勢いだったので、凜は警戒しながら一歩身を引いた。会ったばかりなのにこの馴れ馴れしさは何なのだろう。


「……葉月凜。っていうかあんた、あたしに何の用? それにここどこ? あたしライブ会場にいたはずなんだけど、何でこんな広場にいるの?」


 混乱が昂じて凜が矢継ぎ早に質問を浴びせかける。昴は面食らった顔をしたものの、すぐに外国人のように大げさに肩を竦めて見せた。


「そういっぺんに質問されると俺も困っちゃうな。ま、でも、最初はみんなこんなもんか。オッケー、順番に答えるよ。

 まず、俺は君を迎えに来た。君にこの世界の案内をするためにね。次に、ここは君がさっきまでいたところとは別の世界だ。この広場はこの世界の入口で、君はこの世界に招待されたからここにいるってわけさ」


 昴はそう言って凜の反応を確かめたが、凜は宇宙人でも見るかのような胡乱な目つきで昴を見ているだけだった。


「……あんた、頭大丈夫? さっきから何言ってんの? この世界がどうとか広場が入口とか、全然意味わかんないんだけど?」


 猜疑心を露わにしながら凜が尋ねるも、昴は少しも気を害していないようだった。腕組みをし、何やら納得した様子で一人でうんうんと頷いている。


「まぁそうだよな。最初はだいたいみんなそんな反応だよ。じゃあ……そうだな。この世界が夢の世界だって言ったら、ちょっとは理解してもらえるかな?」


「夢? 夢ってあの、寝てる時に見るやつ?」


「そう、寝てる時に見るその夢だ。ただ普通の夢と違うのは、ここがみんなの見てる夢の集合体ってことだ」


「夢の集合体? どういうこと?」


「要するに、いろんなの奴の夢が一体になって世界を創ってるってことさ。例えば今、俺はこうして君と話をしてる。つまり、君と俺は同じ夢を見てる。だけど、君が俺と別れてどこか他の場所に行ったら、そこで俺が見てるのとは違う夢を見ることもできる。この世界じゃみんなの夢がつながってるから、そこでまた別の奴に会えるかもしれない」


「夢が……つながってる?」


「そう。それにもっとすごいのは、この夢はいつまでも覚めることがないんだ。どんなに楽しい夢でも普通はいつか覚めちまうけど、この世界じゃ、自分が意志を持って出て行かない限り夢は覚めることはない。つまり、自分が見たい夢をいつまでも見ることができる、そんな素晴らしい世界がここ、夢遊界むゆうかいなんだよ」


 昴がそう話し終えても、凜はやはり怪訝な目で昴を見つめたままだった。

 夢遊界? 夢の集合体? この男はいったい何を言っているんだろう。本当に頭がおかしいのかもしれない。こんな男とは関わらない方がいい。ここがどこだか知らないけれど、さっさとこの男から離れて交番でも探そう。凜はそう思って一歩後ずさろうとしたが、地面に下ろしたはずの足の感覚がないことに気づき、はっと息を呑んで視線を落とした。


 そういえば、さっきから自分の身体が何かに触れている感覚が全くない。物を見たり聞いたりすることはできるけれど、何かに触れてもそれを感じることはできない。ちょうど夢の中で何かに向かって手を伸ばしたとき、それに触れた事実が視覚的にはわかっても、触覚的には感じることができないように。


「……よくわかんないんだけど。つまりあたしは今、夢を見てるってこと?」凜が混乱しながら尋ねた。


「その通り。そして俺は、夢遊界の新たな住人になった君を迎えにきた、白馬に乗った王子様ってわけさ」


 昴はそう言って凜を誘うように両手を広げて見せたが、凜は無視した。つまり、この寒くてキザったらしい男と会話をしているのは夢の中の自分で、現実の自分は別にいるということだ。

 ようやく状況を理解すると、凜はきっと昴を睨みつけた。


「ここが夢だってことはわかったけど、あたしは別にこんな世界に興味ない。それより現実は? 現実のあたしはどうなってるのよ?」


 凜の反応が意外だったのか、昴は目を瞬かせて凜を見つめた。それから残念そうに両手を下ろして尋ねる。


「……知りたい? 現実のことなんて、知らない方が幸せだと思うけどな」


「あんたバカ? 現実の自分がどうなってるかもわかんないのに、夢の世界で呑気に遊んでられるわけないでしょ!?」


 凜が苛立ったように叫んで両の拳を振り下ろした。この男と話しているとどうにもペースを乱される。

 昴は尚も気が進まなさそうにしていたが、やがて諦めたように肩を竦めて言った。


「まぁいいや。君がそんなに知りたいなら見せてあげるよ。お望み通り、君が置かれた現実ってやつをね」


 芝居がかった口調でそう言うと、昴はそう片手をズボンのポケットに突っ込んだ。さらに反対の手を上方に掲げ、合図をするようにぱちんと指を鳴らす。

 次の瞬間、傍にあった噴水が大きく吹き上がり、いくつもの水飛沫が凜の顔を濡らした(もちろんそれも、あくまで視覚的に濡れたように感じただけだ)。

 凜は驚いてその方を振り返ったが、そこに映し出された光景はさらに驚くべきものだった。






 天井や壁を白で覆われた無機質な空間に、タイヤの転がるがらがらとした音が響く。白い制服を着た何人もの看護師が、緊迫した表情を浮かべて足早に寝台を運んでいる。どうやら病院のようだ。


『先生……凜は、凜は大丈夫なんですか? 助かるんですよね!?』


 誰かの悲痛な声が辺りに響いた。見ると、侑李が泣きそうな顔をして白衣を着た中年の男と話をしている。どうやら医者のようだ。鼻の下に立派な髭を生やし、いかにもベテランといった貫禄を漂わせているが、その眉間には深い皺が刻まれている。


『……わかりません。何せ頭部に外傷を負っていますから。命が助かったとしても、後遺症が残る可能性はあります。我々としても全力を尽くしますが……』


 医者が重々しく言った。凜は状況が呑み込めなかった。どうして侑李が病院にいるのだろう。それに侑李が口にした「凜は大丈夫なんですか」という言葉。つまり、あの寝台に乗せられていたのは自分ということか。


「ここまで見ても、まだ思い出せない?」


 昴が尋ねてきた。凜は頷き、説明を求めるように昴を見た。昴は凝りを解すように何度か首を傾げ、ふうっと息をついて言った。


「ここに来る直前、君は車に撥ねられて頭を打った。それで意識不明になって、病院に担ぎ込まれたってわけさ」


「撥ねられた? あたしが? それで意識不明?」


 昴の言葉を機械的に繰り返す。言葉の意味はわかっても、それが自分の身に起こったことだなんて凜には到底信じられなかった。


「そう。それが君の知りたかった現実だ。君の身体は今も眠り続けていて、意識は肉体を離れ、ここ夢遊界に辿り着いたってわけさ。身体の方は、たぶん今から手術をするんだろう。でも意識自体は今もこうやってぴんぴんしてるんだから、そう心配することもない。せっかく夢遊界に来れたんだ。バカンスだって思って楽しんでいってくれよ」


 昴は安心させるように言ったが、凜は余計に腹が立っただけだった。

 何がバカンスだ。この男、他人事だと思って勝手なことばかり言っている。いつまでもこんな男の相手をしていても時間の無駄だ。まだ続いている噴水の映像からも昴からも目を背け、凜はさっさと歩き出そうとした。


「おいおい待ってくれよ。せっかく迎えに来たってのにそんなつれない態度はないだろ? もうちょっと愛想良くするとか、優しくするとかしてくれてもいいんじゃないの?」


 嘆くように言いながら、昴が背後から凜の腕を摑んでくる。凜は苛立ちを覚えて乱暴にその手を振り払った。


「離してよ! あたしはこんな訳わかんないところにいるつもりなんかないんだから! さっさと現実に帰らしてよ!」


「それはできないな」急に昴が真顔になって言った。


「どうしてよ!」


「さっき見ただろ? 君は意識不明の患者として病院に担ぎ込まれたんだ。たとえ手術が成功したとしても、しばらくは安静が必要だろ? 君がいくら現実に帰りたいと思っても、肉体の側で受け入れる準備が整ってなけりゃどうしようもないさ」


「そんな……。じゃああたしはどうすればいいのよ!?」


 凜は頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。自分が置かれた状況の悲惨さがようやく呑み込めてきて、絶望的な思いが胸の内に広がっていく。


「だからさ、今は現実を忘れてこの世界を楽しもうぜ。それに、この世界がどれだけ居心地がいいかってことがわかれば、君も現実に帰りたいなんて思わなくなるだろうよ」


 昴がそう言って凜の肩に手を置いた。凜は身体を捩ってその手を振り払うと、混乱する頭で状況を整理しようとした。


 自分は現実の世界で意識不明となり、この夢遊界にやってきた。そして、現実の世界で自分の身体が回復するまでは、この世界に留まるしかない。悔しいが、その事実は認めなければならないようだ。これからどうするかについてはまだ考えが及ばないが、少なくとも、この昴とかいう男から離れた方がいいことだけはわかった。これ以上彼と話をしていたら、怒りのあまり神経がズタズタになってしまいそうだ。


 痛みを増した頭を支えながら、凜はふらふらと立ち上がった。タイルを踏みしめる感覚がないことにも少しずつ慣れ始めてしまっていた。気が進まないながらも昴に向き直り、彼と目を合わせずにぽつりと呟く。


「……ここが夢の世界だなんて、今でも信じらんない。でも、どうせ夢なんだから、目が覚めたらそれで終わりなんでしょ? だったらちょっとだけ、我慢してあげる」


 あくまでつっけんどんに凜は言ったが、昴は気にした様子もなく笑った。


「そうか、嬉しいよ。じゃ、ひとまずこれを渡しておこうかな」


 そう言うと、昴はポケットから携帯電話を取り出して凜に渡した。今時珍しいガラケーで、飾り気のない、銀色のシンプルなデザインだった。それを手渡されてもやはり、機械のひんやりとした硬い感覚が手のひらに伝わることはなかった。


「そこに俺の番号が入ってる。何か困ったことがあったらいつでも電話してきてくれ。ああもちろん、困ったことがなくても電話してくれて構わないぜ?」


「……たぶん一生使うことないけど、一応もらっとくわ」


 凜はそれだけ言うと、携帯電話をGジャンのポケットに入れ、今度こそ昴に背を向けて歩き出した。

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