暗転

 そうしてあっという間に二時間が経ち、とうとうライブが終わる時間となった。

 

 アンコールを終え、ステージを降りて行こうとするシゲルを引き留めるかのように、客席のあちこちから何度も彼の名前を呼ぶ声が聞こえた。そのたびにシゲルははにかんだ笑顔を見せながら、声援一つ一つに応えるように何度も手を振っていた。だが、その時間もやがて終わり、ついにシゲルの姿が見えなくなると、今度は惜しむような声が客席のあちこちで上がった。


「やー、よかったねー! あたしすっかり聴き入っちゃって、二時間ってこんな早かったけ? って感じ!」


 人でごった返す会場を歩きながら、凜が興奮気味に言った。ライブは終わったはずなのに、まだ熱気の名残が辺りに漂っている気がする。隣を歩く侑李も同じことを考えたのか、頬を上気させて頷いた。


「ほんとほんと! CDはいっつも聴いてるけど、やっぱ生は格別だよねー!」


「ほんとに! 侑李はどの曲が一番よかった?」


「どれもよかったけど、一個選ぶなら最初の曲かな。デビュー前からずっと聴いてるやつだから思い入れあってさ」


「あー、あれよかったよね! あれ聴いてあたし泣きそうになったもん。シゲルもとうとうここまで来たかー! みたいな?」


 凜と侑李がファン同士の会話に花を咲かせている一方で、久美はといえば、面白くなさそうな顔をして二人の後をついてきていた。久美も一応シゲルのファンではあったのだが、侑李の言うところの『ミーハー』な方のファンであったため、二人のコアな会話に入り込むことができずにいた。おまけにヒールの高い靴を履いてきてしまったため、広いライブ会場を歩き回るのにすっかり疲れ、ますます不機嫌になっているのだった。


 そうしているうちに三人は会場の入り口まで戻ってきた。そのまま出て行く気にはなれず、何となく立ち止まって顔を見合わせる。


「……この後どうしようか」


 久美の様子をこっそり窺いながら、凜が侑李に向かって尋ねた。侑李と二人だけなら、この後カフェにでも行ってライブの感想を語り合うところなのだが、久美が一緒ではそういうわけにもいかない。


「……そうだね。久美、ライブとかあんまり行かないから疲れたでしょ? 今日はもう帰った方がいいんじゃない?」


 侑李が久美に向かって言った。一見労っているようで、実際のところ侑李は久美を帰したがっているのだと凜にはわかった。

 だが、久美は侑李の胸中を知ってか知らずか、気だるげに息をついて言った。


「……うん。でもその前に、喉渇いたから何か飲みたいな。侑李、何か買ってきてくれない?」


「あ、それならあたし行ってくるよ。何か欲しいもの言ってくれたら……」


 凜は思わずそう答えていた。侑李が飲み物を買っている間、久美と二人きりで気まずい雰囲気になるのが嫌だったのだ。

 だが、久美は凜の方をちらりと見ると、すぐに目を逸らしてかぶりを振った。


「ううん、葉月さんはいいよ。悪いもん。ね、侑李、いいでしょ?」


 お菓子をねだる子どものように言って久美が侑李を見上げてくる。侑李は久美には答えず、代わりに心配そうな視線を凜に寄こしたが、凜は何でもないと言うように笑った。


『大丈夫、ちょっとの時間だもん。片瀬さんと二人でも大丈夫だよ』


 侑李はそれでもまだ心配そうな顔をしていたが、やがて諦めたのか、凛と久美のどちらともになく頷くと、自動販売機を探して小走りで去って行った。会場に詰めかけていた客もあらかた帰ったようで、付近にいるのは凛と久美だけだ。


 侑李がいなくなると、凜は途端に何を話せばよいのかわからなくなってしまった。考えてみれば、凜はこれまで久美とまともに話をしたことがない。


「……なんか、ごめんね。疲れさせちゃって」


 何となく凜はそう言ったが、なぜ謝っているのか、自分でもわからなかった。元はといえば久美のせいではないか。誘ってもいないのに勝手についていて、そのくせ高いヒールで歩き回って一人で疲れている。そんな久美を気遣う筋合いなどないと頭ではわかっていても、なぜか久美を前にすると、自分の方が悪いような気になってしまっていた。


「……別にいいよ。あたし、侑李がいたから来ただけだし」


 久美が素っ気なく言った。さっきまでの甘えるような素振りは微塵も見えない。凜はそれ以上何を言っていいかわからず、もやもやした気持ちを抱えながら黙り込んだ。


 それからしばらく沈黙が続いた。たぶんほんの数分のことだったと思うが、凜には何時間にも感じられた。侑李、早く戻ってこないかな。凜が首を伸ばして様子を窺っていると、久美が唐突に口を開いた。


「……葉月さんはさ、いつから侑李と仲いいの?」


 脈絡のない質問に、凜が戸惑ったように久美の顔を見る。だが、久美は手すりにもたれて入口のカーペットを見下ろしていて、凜の方を見る気配はなかった。

 久美は何を考えてるんだろう。凜は訝りながらも答えた。


「えーっと……確か一年の時かな。あたし、侑李と出席番号が続きだったから席が近くて、それで話すようになって。で、二人ともシゲルが好きだって知ってから特に仲良くなった感じかな」


「ふーん……」


 凜の方を見ないまま、久美が関心なさそうに言った。自分で訊いておきながらさもどうでもよさそうなその返事に、さすがの凜も腹が立ってきた。自分と侑李の仲を邪魔するようなことばかりして、久美はいったい何がしたいのだろう。


 凜がそんなことを考えていると、またしても久美が唐突に話し始めた。


「……あたしはね、侑李と幼なじみなの。幼稚園も小学校もおんなじで、あたし達はずっと一緒だった。あたしの隣にいるのは、いつだって侑李じゃないとダメ。わかる? 侑李はあたしの親友なの。あたしの一番はいつだって侑李だし、侑李にとってもそうじゃないと許さない。だからさ……」


 そこまで言うと久美は急に顔を上げた。その目に明確な敵意を浮かべて、突き刺すような視線で凜を睨みつけてくる。


「アンタみたいな侑李と一年くらいしか付き合いのない女が、侑李の親友みたいな顔して隣に居座っての見てると、すっごいムカつく。何がシゲルよ、それでたまたま侑李と気が合ったか知らないけど、どうせ他に話すことないんじゃないの?」


「そんなこと……!」


 ない、そう反論しようとしたところで凜ははたと思い留まった。考えてみれば、自分はこの一年間、侑李とどんな話をしてきたのだろう。シゲルのこととなると話題は尽きなかったが、それ以外のことで話をしたことがあっただろうか。


 黙り込んだ凜の様子を見て図星だと思ったのか、久美が勝ち誇ったように言った。


「ほら見なさい。アンタとあたしじゃ、侑李と一緒にいた時間が全然違うの。あたしは侑李のことなら何でも知ってる。希望の大学とか、将来の夢とか、どうせアンタにはそんな話したことないんでしょ? それで侑李の親友気どりでいるんだもん、バッカじゃないの?」


 久美のその言葉は、鋭利な刃物のように凜の心を突き刺していった。


 確かにこの数週間で、自分と侑李の間の距離は急速に縮まったように思えた。侑李が他の誰を差し置いても凜をライブに誘ってくれたこと、久美よりも自分との約束を優先してくれたこと、大舞台に立つシゲルの姿に共に涙を流したこと。そんな数々の出来事が、侑李にとって自分はただの友達ではないのだという期待を凜に持たせていた。

 だけどそれは、自分の思い過ごしだったのだろうか。侑李にとって自分は、どこにでもいる、少し気が合うだけの友達の一人に過ぎなかったのだろうか――。


「お待たせー! 自販機なかなか見つからなくってさ。かなり遠くまで行っちゃったよ」


 そこでようやく侑李が戻ってきた。走ってきたらしく、膝に手を当ててはぁはぁと息を切らしている。それから顔を起こして凜の方を見たが、途端に怪訝そうに眉を顰めた。


「……あれ、凜、どうかした? なんか顔色悪いけど……」


 侑李が心配そうに凜の顔を覗き込んでくるも、凜はその目をまともに見ることができなかった。気詰まりな沈黙。それを破るように場違いに明るい久美の声が響いた。


「あ、炭酸買ってきてくれたんだー! あたし、ちょうど飲みたいって思ってたんだよねー! さっすが侑李、あたしのことよくわかってるよねー!?」


 一見すると邪気のない言葉。だけど凜には、それが自分への当てつけであることがはっきりとわかった。侑李が気遣わしげな視線を向けてくるものの、その視線を感じていることすら今の凜には辛かった。


「あ、そうそう、葉月さんちょっと具合悪いみたいで、今日はもう帰ったらって話してたとこなの。明日も学校だし、葉月さんもその方がいいよね?」


 さも今思い出したような口調で久美が言った。凜はちらりと顔を上げて久美の方を見た。クラスメイトを心配する優しい女の子の顔を作ってはいるが、その目ははっきりと、凜にこの場から立ち去ることを命じていた。


「……うん、そうする。ごめんね……侑李」


 凜はそれだけ言うと、侑李と目を合わせないままふらふらと自動ドアを通って行った。途中、何度も人にぶつかりそうになったが、もはや謝る気力もなかった。


 侑李は怪訝そうにその背中を見つめていたが、すぐに自分がいない間に何が起こったのかを悟ったようで、顔をしかめて久美の方に詰め寄った。


「久美……。あんた、凜に何言ったの?」


 険しい口調で詰問されても久美が意に介した様子はない。むしろけろりとした顔で、無邪気に肩を竦めて言った。


「別に? なんか勘違いしてるみたいだったから、ホントのこと教えてあげただけ。変に期待させちゃかわいそうだもんね?」


 久美が何のことを言っているのか、侑李にはわからなかった。だけど、久美の言葉が凜をおかしな状態にしたことは間違いなさそうで、侑李はさらに問い質そうと久美に詰め寄って口を開いた。


 その時だった。突然外から鋭い音がして、次いで何か大きなものがぶつかるような音がした。侑李と久美は驚いてその方を振り返った。外に止まった赤い車から、男性が血相を変えて出てきた。通行人が慌てふためいた様子で救急車を呼べと叫んでいる。どうやら人身事故のようだ。辺りは一瞬で騒然となり、ライブ会場に残っていた人々は首を伸ばして事態を確かめようとしていた。


 その時、侑李の目に信じられないものが飛び込んできた。外の人混みの先にちらりと見えた服。あれはおそらく轢かれた人のものなのだろうが、侑李はその服装には見覚えがあった。水色ベースの、黄色い花柄のワンピース――。


「凜!」


 気がつくと侑李は駆け出していた。人混みを搔き分け、転がるようにしてその人の元へ向かう。見たくない、でも確かめなきゃ――。せめぎ合う思いがぶつかる中で侑李はようやく現場へと辿り着いた。立ち止まり、目の前の光景を呆然として見つめる。遮るものが何もなくなっても、それを現実として受け止めるにはひどく時間がかかった。




 凜が、頭から血を流して倒れていた。

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