優しさと恋

 その後、どうやって鷹と一緒に帰り、道中にどんな話をしたのか、凜ははっきりとは覚えていない。普段は鷹と二人でいても緊張することはないのに、一度意識してしまうと頭が空っぽになり、自分でも何を話しているのかわからなくなってしまったのだ。


 ただ一つだけ覚えているのは、電車の中で、鷹と進路の話をした時のことだ。ロングシートの座席に鷹と並んで腰かけ、いつもと変わらない風景を眺めながら凜達は電車に揺られていた。午後三時、帰宅途中の学生か主婦、後は老人くらいしか乗っていない車内はがらがらで、凜達の周りにもほとんど人はいなかった。だから凜は、少し突っ込んだ話をしてみてもいいかと思い、鷹の方を向いて尋ねたのだ。


「……そういえば、鷹は進路とかどうするの?」


 鷹はその時、シートに背中を預けてうとうとしていたが、凜の質問に気づくと身体を起こして彼女の方を見た。それから質問を咀嚼するようにううん、と唸り、腕組みをしてしばらく考えてから答えた。


「まだはっきりとは決めてないんだけど、大学に行きたいと思ってる。俺、サッカー続けたいからさ、サッカーが強いとこがいいなと思って」


「……そっか。いいね、やりたいことがあって」


 膝の上に置かれた鞄に視線を落として凜が呟いた。鷹は偉い。ちゃんと自分の進みたい方向を見つけている。打ち込めるものなど何もなく、希望も展望もない自分とは違う。


「葉月は? なんか考えてるのか?」


「何にも。っていうかわかんないんだよね。別にやりたいこととかないし」


「芳賀は? あいつとはそういう話しないの?」


「うーん。侑李とはシゲルの話ばっかだから、そういえば訊いたことないな」


「そっか。まぁ俺も今は適当に言ってるだけで、実際に進路決めるのはまだ先だって思ってるよ。俺らまだ二年だし、そこまで真剣に考えなくてもって感じだよな」


 高校二年の五月。進路について真剣に考えるには確かに少し早い。そう思う一方で、凜は先日あったホームルームのことを思い出していた。

 凜達の担任をしているのは杉岡と言う数学教師で、少し猫背気味の小柄な身体と、生徒が相手であってもいやに丁寧な口調が特徴的な男だった。年齢は三十代半ばと若い方だが、いつも神経質そうに眼鏡をいじりながら長々と弁舌を垂れるので、生徒からはあまり人気がなかった。


 その杉岡が、ホームルームでこんなことを言っていたのだ。


『いいですか。あなた方はまだ二年に進級したばかりで、進路のことを考えるのは早いと思っているかもしれません。受験にしても就職にしても、取りかかるのはまだまだ先だってね。まぁ、その意見もわからなくはありません。遊べるうちは遊んでおきたい、面倒なことは先延ばしにしたいというのは、学生なら誰でも思うことですからね。

 しかしですね、そうやって考えることを先延ばしにしてるとね、知らないうちに差をつけられてることがあるんですよ。いざ自分のやりたいことが決まったとしてもね、ずっと前からそれを目指してた人達に追いつくのは、すごく大変なことなんですよ。

 だからね、私は早くから考えることが大事だって言うんですよ。今はまだ、皆さんにはいろいろな可能性がありますからね。目先の快楽だけに捕らわれて、自分の道を狭めてほしくないんですよ』


 五時間目のホームルーム。テストに関係ないからといってここぞとばかりに寝る者や、こっそり携帯をいじる者、あるいは部活の方に気が行っている者。そんな生徒達に向けられた杉岡の演説は、おそらく半分も聞かれていなかっただろう。凜も普段はまともに杉岡の話など聞いていないのだが、なぜかその話だけは不思議と耳に残っていた。


 きっと焦りがあったのだろう。自分にはやりたいことなんてないけれど、周りの人間はすでにそれを見つけていて、自分だけが取り残されているのではないかと。そんな風に考えたから、その日、帰ってから母にそれとなく話を向けて見たのだ。結果は知っての通りだけれど。


「……葉月? どうかしたか?」


 急に黙り込んだ凜を不審に思ったのか、鷹が凜の顔を覗き込んできた。凜は急いでホームルームのことを頭から追い払った。


「あぁごめんごめん。ちょっと考え事しててさ。でもそうだよね。ついこないだまで一年だったのに、二年になった途端に進路のこと考えろとか、慌ただしいよね」


「そうそう。早いうちから考えろってのはわかるけど、正直まだ実感湧かないよな」


「ホントそうだよ。まぁあたしの場合、たぶん考えたって無駄な気はするんだけどさ」


「何だよそれ、どういうことだ?」


 鷹が怪訝そうに再び凜の顔を覗き込んできた。凜は少し迷ったが、この際言ってしまうことにした。


「うちね、親がシングルマザーなの。だからあんまり余裕なくってさ。ホントはあたしも鷹みたいにバイトすればいいんだけど、お母さんは高校生のうちは遊んどけばいいなんて言って、やらせてくれないんだよね。で、お母さん自分が高卒だから、あたしも卒業したら当然就職するって思ってるらしくて、進路の話とか一切しないんだよね」


 迷いに引き摺られないように凜は一気にぶちまけた。母親のことや家のこと、侑李にだってしたことのない赤裸々な話をしようと思ったのは、相手が鷹だからだ。普通なら反応に困るようなプライベートな話でも、鷹なら聞いてくれるような気がした。


 実際、鷹は少し驚いた顔になったものの引いた様子は見せず、心配そうに眉根を寄せてさらに尋ねてきた。


「葉月はそれでいいのか? 母さんの言う通り、卒業したら就職するってことで」


「うん。家がお金ないのは事実だし、どうせあたしの頭じゃ大した大学行けっこないし。それなら最初から就職した方がいいかなって」


 実際、凜の成績は悪かった。テストはギリギリ赤点にはならないものの大抵が平均点以下で、五段階の通知表にはいつも二が並んでいた。将来の希望とか、やりたいこととか、そんなものが見えない生活の中では、勉強をする気も起こらなかったのだ。


「あたしも最初はさ、お母さんみたいにはなりたくないって思ってたんだ。旦那に養ってもらうんじゃなくて、もっと自分の力でお金稼いで、一人で生きていけるようになりたいって。でも、やっぱ無理かなって」


 苦笑しながら凜が続ける。こんな風に思うようになったのは、進路指導室で大学の赤本を見たことがきっかけだった。大学入試とはどんなものだろうと興味本位で手に取ってみたものの、そこに書かれた内容のあまりの難しさに立ち眩みを起こしてしまったのだ。

 後から知ったところ、それはかなり偏差値の高い大学の赤本だったらしいが、それ以来、大学入試とは難しいものだという認識が頭にこびりついてしまい、進学などとても無理だと思うようになってしまったのだった。


「……鷹は偉いよね。クラブもバイトもやって、進路のこともちゃんと考えてて。あたしなんか何にもしてないのに……」


 うつむき加減に零しながら、凜はだんだん自分が惨めに思えてきた。本当、どうしてあたしばっかりが、こんなに何もないんだろう――。


「……そんなことないよ」


 不意に呟いた鷹の声が頭上から聞こえ、凜は顔を上げて彼の方を見た。鷹は前を向き、眉間に皺を寄せてじっと何かを考えているようだったが、やがて凜の方を向いて言った。


「葉月は自分が何にもないって思ってるかもしれないけど、そんなことないよ。他の奴になくて、葉月にしかないものが絶対にある。そういうのがあるから、芳賀もお前と仲良くなりたいって思ったんじゃないのか?」


 凜は咄嗟に言葉を返せなかった。いきなりこんなプライベートな話をして、普通なら引かれてもおかしくないのに、鷹は引くどころか自分を慰めてくれている。凜に向けられた眼差しは気遣わしげで、彼の言葉が場を埋めるために適当に出たものではなく、熟考した末に口にされたものであることが伝わってくる。鷹のその優しさに、凜は重く沈み込んでいた心が解放されていくような気がした。


「……ありがと。なんかごめんね。変な話しちゃって」


 凜が眉を下げて笑う。本当はもっと気の利いた言葉でお礼を言いたかったのだが、そうすると何か余計なことを口走ってしまいそうで、だから簡単に伝えることにした。


「いやいいよ。もしまた何か話したくなったらいつでも言えよ。家のこととか、全然変な話じゃないし、一人でため込むのも辛いだろ」


 凜の心境には気づいていないのか、鷹が何でもないように言った。当たり前のように口にされたその言葉がまた身に沁みて、凜は鷹への想いがますます強まるのを感じながらも、それを悟られないよう、うん、とやはり簡単にだけ返事をしたのだった。

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