亀裂
その日は一日があっという間に過ぎた。凜は放課後も侑李と一緒に帰り、途中CDショップに寄ってシゲルの最新アルバムを買った。その後さらにカフェに寄り(ちなみにこの前久美が言っていたカフェは、待ち時間が長過ぎて結局入れなかったらしい)、そこでもまたシゲルのことでひとしきり盛り上がった。
こんな楽しい一日を過ごしたのは本当に久しぶりだった。駅で侑李と別れる時、凜は言いようのない寂しさを覚えていた。今日が特別な日ではなくて、いつもこんな風に過ごせたらいいのに。それが叶わない願いだとはわかっていても、凜はそう願わずにはいられなかった。
翌朝、凜は緊張した面持ちで教室のドアを引いた。中に入り、ぐるりと教室を見回す。久美が来ているかどうかを確かめようとしたのだ。もし久美が今日も休みなら、また侑李と一日一緒にいられる。そんな淡い期待を抱いていたのだが、その期待はすぐに打ち破られることになった。
「もーすっごい退屈だった! 親戚なんて言っても全然会ったことない人ばっかだし! とりあえずニコニコしといたけど、あーいう集まりって超疲れる―」
教室の端から久美の気だるそうな声が聞こえてきた。凜がその方に視線をやると、窓枠にもたれ、腕組みをしながら話している久美の姿が見えた。久美のグループの子達は彼女を取り囲み、同情するかのようにうんうんと頷いている。当然、その中には侑李の姿もあった。
凜は軽くため息をついた。わかってる。昨日が特別だっただけで、これがいつもの光景なのだ。凜は自分に言い聞かせるように心の中で何度も言うと、黙って自分の席に向かった。その間にも、凜を追いかけるように久美の甲高い声が聞こえてくる。
「でもさ、一個だけいいことあったんだ。親戚の叔父さんがレインボーランドのオーナーの知り合いかなんかでさ。チケットくれたんだ!」
「えーすごい! あれチケット高いんでしょー? そんなのもらえるなんて超ラッキーじゃん! うらやましいー!」
取り巻きの女の子達が心底羨ましそうに身体をくねらせた。レインボーランドというのは、最近この近くにできたテーマパークのことで、様々な絶叫マシンがあることでオープン当初から話題になっていた。
周りのそんな反応に気をよくしたのか、久美は得意げにふふんと笑って言った。
「でしょ? でも大丈夫。ちゃーんとみんなの分ももらってるから。今度の日曜にでも行こうよ!」
久美のその言葉に、取り巻きの子達は手を叩いてはしゃぎ始めた。凜は一連の会話を聞くともなしに聞きながら、ふとその中に引っかかるものを感じた。今度の日曜――。
凜は思わず顔を上げて久美達の方を見た。横目で自分の方を見ている侑李と目が合った。困惑したようなその顔を見て、凜は侑李も自分と同じことを考えているのだとわかった。今度の日曜。それはシゲルのライブに行こうと約束していた日だった。
凜はしばらく侑李の顔を見つめていたが、やがて仕方がないというように肩を竦めて見せた。久美の言うことは絶対だ。久美が日曜といったら日曜なのだ。他の曜日に変えるなんてことはできない。凜にもそれはよくわかっていたから、気にしていないことを侑李に伝えようとした。
『残念だけど仕方ないね。また今度行こう。いつチケット取れるかわかんないけどさ』
侑李は横目でじっと凜の方を見つめていた。いつも通りの言葉のない会話。だけど、凜の考えていることは侑李にも伝わっているはずだった。
だから、次に侑李が発した言葉に、凜は自分の耳を疑ったのだった。
「――ごめん、あたし、行けない」
その言葉が発せられた途端、教室の空気が少し変わったような気がした。
凜は驚いて侑李の方を見た。久美の周りの子達も、信じられないというように目を丸くして侑李を見つめている。そして久美はといえば、まさか断られるとは思っていなかったのか、侑李の顔を穴が開くほど見つめていた。
「……なんで!? 侑李がいないとつまんないじゃん! 日曜がダメなら他の日でもいいよ。侑李が都合のいい日で……」
久美が縋りつくように言った。いや、実際侑李の腕に縋りついていた。自分を置いて行こうとする母親の手を離すまいとする子どものような目で侑李を見上げる。
だが、侑李はそんな久美を前にしても表情一つ変えず、短く首を振って言った。
「悪いけど、あたし、元々絶叫系あんまり好きじゃないから。行くならあたし抜きで行ってくれる?」
侑李はそれだけ言うと久美の手から自分の腕をそっと抜き、自分の席の方に戻って行ってしまった。縋りつく手を失った久美は、まるで大好きなおもちゃを目の前で取り上げられた子どものような顔をしていた。ずっと傍に置いておけると思っていたのに、突然それがなくなってしまった、そんな表情だ。
クラス全体が凍りついたように二人のやり取りを見つめていた。侑李が久美にとって特別な存在であることは誰もが知っていた。他の誰かが久美を怒らせたり機嫌を損ねたりしようものなら、その人物は真っ先に次の標的となり、穏やかで安心した学校生活を送れなくなる。
だけど侑李は違う。侑李は唯一、久美の顔色を窺わなくても安定したポジションを約束された人間だった。
だがそれにしたって、今の侑李の態度はあまりにも愛想がないように思えてならなかった。
せっかくの誘いを無下にしてしまって申し訳ないと、そんな風にへりくだって断られたのなら久美もまだ納得できたかもしれない。だけど侑李は、ほんの一言二言を添えてにべもなく断っただけだ。いくら侑李がクールなキャラで通っているとはいえ、あんな風につれない態度を取ってしまったら、久美の怒りの矛先が侑李に向いてしまうこともあり得るのではないか。誰もがそんなはらはらとした思いで席に戻っていく侑李の姿を見つめた。
もちろん凜もその中の一人だった。侑李はどうしてしまったのだろう。他の子のように手を叩いて賛同することはなくても、侑李が久美の誘いを断ることなど今までなかったのに。
凜がそんなことを考えながら侑李を見つめていると、不意に侑李と目が合った。クラス中が注目していたが、侑李は自分が視線を浴びていることなど気にもかけていないかのように、凜に向かって静かに微笑んで見せた。
『大丈夫、約束はちゃんと守るから』
凜には侑李がそう言っているように思えた。凜は目を瞬いて侑李の顔を見返した。それは凜が今まで侑李としてきた言葉のない会話の中でも、最もはっきりとしたメッセージだった。
凜は周囲の視線が自分の方に集まるのを感じながらも、それでも自然と顔が綻ぶのを抑えられなかった。侑李が久美ではなく、自分の方を選んでくれた。そのことに言いようのない嬉しさを覚えていたのだ。
この時ばかりは凜も、自分が周りからどう思われているかを気にしていなかった。
だから、侑李を見つめる自分の顔に喜びが浮かんだ時、久美が自分の方を見ていることにも、その目に激しい憎悪が浮かんでいることにも、まるで気づいていなかった。
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