一時の晴れ間

 翌朝、凜はいつものように一人で登校していた。何人かのクラスメイトが自分の脇を通り過ぎて行ったが、誰も凜に声をかける者はいない。凜の方でも期待などしていない。そんな時期は当の昔に過ぎてしまった。


 凜は大きくため息をついた。今日もまた意味のない一日が始まる。誰とも関わらず、つまらない授業を聞いて、適当に時間をやり過ごすだけの一日が。そんなことを考えると、またあのむっつりとした表情が凜の顔に浮かび、始まる前からすでに暗い気持ちになってしまうのだった。


 


 教室に一歩足を踏み入れた途端、何かがいつもと違うような気がした。特に目立つ変化があったわけではない。転校生が来たとか、誰々先生が結婚したとか、そういう真新しい話題で賑わっていたわけでもない。ただ何となく、いつもより教室が開放的で、みんながのびのびとしている気がしたのだ。


「凜! おはよう!」


 そう言って後ろから肩を叩かれ、凜は驚いて振り返った。見ると、侑李が自分に向かって晴れやかな笑顔を向けているのが見えた。何日も雨が続いた後にようやく晴れ間の広がる空を見上げたような、すっきりとした笑顔だ。


 普段の侑李らしくないその表情に、凜は何事かというように目を瞬かせて侑李の顔を見つめた。しかも、教室でこんな風に大っぴらに声をかけてくるとは。それがあまりに久しぶりのことだったので、凜はどう反応すればよいかわからなかった。真っ先に頭に浮かんだのは、こんな場面を久美に見られたら大変なことになるのではないかという心配だった。


 久美の姿を探して教室をきょろきょろと見回す凜の姿を見て、侑李は可笑しそうに笑って言った。


「大丈夫。今日は久美いないよ。親戚のお葬式があるから休みなんだって」


 侑李はそういうと凜の方に顔を近づけてきて、内緒話を打ち明けるように言った。


「……だからさ、あたし達、今日は久美の目を気にする必要もないの。好きなだけ一緒にいて、好きなだけ話ができるんだ! これって最高じゃない?」


 嬉しくてたまらないといった顔でそんなことを言うものだから、凜は呆気に取られて侑李の顔を見つめるしかなかった。普段あれだけ一緒にいるのに、久美がいなくて侑李はこんなに清々した顔をしている。


 本当のところ、侑李は久美のことが嫌いなのだろうか。嫌いとまでは言わなくても、一緒にいる時間が長過ぎてうんざりしていた可能性はあるかもしれない。久美はいつも侑李を自分の傍に置いておこうとしていたから、久美のいる前で侑李が他の人と話をすることはできなかった。そんな生活に侑李は嫌気が差していたのかもしれない。


 何にせよ、今日一日久美はいない。それは凜にとっても嬉しい知らせだった。久美がいなければ、自分は好きなだけ侑李と一緒にいることができる。いつもは一人で適当にやり過ごすしかなかった日常も、侑李がいれば全く違ったものに変わる。


 思いがけず訪れた幸福な一日を想像しているうち、凜は自分も顔が綻んでいくのを感じた。久美に悪いと思う気持ちはなかった。いつもあれだけ侑李を独占しているのだ。今日一日ぐらい、自分にそのポジションを譲ってくれたって罰は当たらないだろう。


 


 凜の思ったとおり、それはいつもとは全く違う一日だった。

 侑李は自分のグループから離れ、本当に凜とずっと一緒にいた。教室移動の時も、お弁当の時も。そんな風に学校で誰かと一緒に過ごすことはとても久しぶりで、凜はその時間を楽しいと思いながらも、ついちらちらと周りを窺ってしまっていた。男子でも女子でも、侑李に憧れている人は多い。そんな侑李と、いつもはクラスで孤立している自分が四六時中一緒にいるのだ。生意気だとか、身のほど知らずだと思われているのではないかと不安だったのだ。


 だが、凜が心配しているほど周りは凜達のことを気にしていないように見えた。久美のグループの子達でさえ、侑李が凜のところにいても気にせずにお喋りに花を咲かせている。凜はその様子を眺めながら、実は久美がいない方がみんな幸せなんじゃないかと思い始めていた。

 久美のいるところでは、誰もが久美に嫌われまいとして、彼女の顔色を窺うことに必死になっている。だけどひとたび久美がいなくなってしまえば、みんながこうして思い思いの時間を過ごせている。普段の教室で見るよりも、その表情はよほど自由で晴れやかだ。


 そこまで考えたところで、凜ははっとしてその考えを頭から振り払った。これじゃまるで、久美一人が悪者みたいじゃないか。凜は久美のことが好きではなかったが、だからと言って久美一人を排除すればいいと思えるほど冷酷にもなれなかった。


「ねぇ凜、聞いてる?」


 不意に侑李の声が聞こえ、凜は慌てて意識を現実に戻した。長い睫毛に覆われた侑李の目が、不満げに凜の顔を覗き込んでいた。


「あ、ごめん。ちょっとボーっとしてた。何だっけ?」


 侑李は口を尖らせて見せたが、すぐに気を取り直したように言った。


「ほら、今度シゲルのライブがあるって話してたでしょ? CD買ったら抽選でチケットが当たるってやつ。あたし、あれ当たってさ!」


「マジで!? すごいじゃん! あれ倍率超高いんだよね?」


 凜も興奮気味に言った。シゲルというのは凜と侑李の好きなアーティストのことで、甘い歌声に乗せたバラードと、それに重なる切ないギターの音色で、若い女性を中心に絶大な人気を誇っている。二人が友達になったのもシゲルの存在がきっかけだった。


「そう! まさか当たると思わなくてさー。しかもペアチケットだよ! もうあたし、これで今年の運使い切っちゃったんじゃないかって感じ!」


 侑李が手を叩いて言った。普段はクールな侑李がこんな風にはしゃぐのを見て、凜も自分のことのように嬉しくなった。


「それでさ、ライブが今度の日曜なんだ。凜、その日空いてたら一緒に行かない?」


 侑李にそう言われ、凜はびっくりしたように侑李の顔を見返した。


「……いいの? シゲルだったら、他にも好きな子いるんじゃないの?」


 凜はちらりと久美のグループの子達の方を見やった。確かあの子達も、シゲルのことをよく話していたはずだ。だが、侑李は首を横に振るときっぱりと言った。


「あれはただのミーハーだもん。シゲルが有名になったから騒いでるだけ。でもあたしや凜は、シゲルがメジャーデビューする前から好きだったでしょ? ファンでも質が全然違うよ。あたしはずっと、シゲルのライブは凜と行くって決めてたんだから」


 そう言ってのける侑李を見て、凜は心の内から温かいものが込み上げてくるのを感じた。ライブに行けるからではない。侑李がそんな風に自分を特別に思っていてくれたことが嬉しかったのだ。

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